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七不思議②~平和祭 ご加護あり

ギリシア オリンピアのゼウス像

在りし日のオリンピアの再現模型。中央の白い建物がゼウス神殿。現地の博物館にて

 戦乱に明け暮れたギリシア人は4年に1度の平和の祭典で休戦し、鍛えた心、技、体の優劣を競いましたとさ。ぶらりギリシア、オリンピアまでゼウス詣へ。

 記録に残る第一回大会は紀元前776年、地元エーリス州出身のコロイボスが180m走で優勝したそうです。古代はこの一種だけ。

 そもそもは生贄を捧げる儀式で重要な「点火権」取得を競い、祭壇まで走っていたそうです。西宮神社で開門と同時に一番福を走り競うのをテレビで観ると、これを思い出します。

ゼウス神殿。当時はここに巨大なゼウス像があり、それが「七不思議」に数えられた。

 オリンピック選手は昔も都市国家の代表であり誇りでした。競技会前にはゼウスに正々堂々戦うことを誓い、犠牲に捧げられた動物肉でパーティしたそうです。中世に一神教のキリスト教が浸透すると。こうした古代宗教の関連行事はどんどん行われなくなりました。

ゼウス神殿を再現、解説する現地の案内板

 さて、古代オリンピックは女人禁制で、男子選手は公平を期して全裸で競技したそうですが、真偽不明です。オリンピア祭とは別にヘラ女神に捧げる女性のみのヘラ祭もあったそうですよ。こちらも競技は徒競走だそうです。

ゼウスの妻・ヘラを祭る神殿

 ちなみにゼウスの正妻ヘラをローマ人はラテン語でユノーと呼び、6月の守護神。6月の結婚はユノー(英語でジュノー)の祝福があるため「ジューンブライドは幸せになる」といわれています。ただ、浮気性のゼウスに嫉妬深いヘラは何度も振り回されていますけど・・・

近代オリンピックの聖火となる採火式の様子を写した現地の案内板

 古代オリンピックは(西)ローマ帝国の晩年にあたる392年、テオドシウス帝がキリスト教をローマ国教と定めたことで、393年の第293回大会で終焉を迎えました。現在も続く近代オリンピックは1892年、フランスのピエール・ド・グーベルタン男爵の呼びかけで復活し、1896年にアテネで第1回大会が開かれました。その後の様々なドラマは各々が知る通りです。

オリンピア遺跡に残る「運動場」の列柱回廊。中央の広場で選手たちは練習に励んだ。

 現在の遺跡内には、ゼウスやヘラの神殿のほか、泉、練習場、選手宿舎、娯楽の音楽堂など様々な遺跡が発掘されていました。また、時代が進んでマケドニアのフィリッポス王(アレクサンダー大王の父)が築いた神殿跡、ローマ帝国のネロ帝の屋敷などといった遺跡もありました。

陸上競技場へ向かうアーチ状の入場門。選手の気持ちになって進みます

 入場ゲートが残っていました。私も日本代表として陸上競技場へ向かいます。それにしてもこの写真・・・随分と選手たちは高齢者が多くて、これなら私でも勝てそうだ。

スタートライン側から遠望

 グラウンドも発掘復元されており、模擬競争して遊んでいる人たちが多いです。ここは想像力を膨らませたいところですね。長くつらい訓練を経て来た自分。それを国で応援する家族や友人。国の代表という誇りを胸に、大勢の観衆と大歓声の中、スタートラインに立ち、そして・・・ゴールライン上では両腕を上げて「ゴ〜ル!」的な撮影を楽しむ方もいました。みんなやりたいですよね(笑)かつてはいざ知らず、現在のオリンピアはほのぼのしていました。

オリンピアのお店で食べたバナナボート

 オリンピア遺跡と現代オリンピアの街は田舎街で、のんびりしてます。この日は運良く入場無料のサービスデイでした。遺跡の入場ゲートに着くと係員さんに「今日は無料だ、ラッキーデイだ」と言われました。ゼウスの御加護がありましたね。幸運でした。

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 ◆私の歩き方:アテネからパトラまでバスや電車があります。そこからバスでピルゴスという街まで行き、さらに小さなローカルバスでオリンピアまで行けます。実際の私の旅ではアテネからコリントス、スパルタなどペロポネソス半島の名所を巡った後にピルゴスからバスで行きました。オリンピアは「町」というより、緑あふれる「村」という感じでした。

表紙写真=古代オリンピックが開かれた陸上競技場。背後はクロノスの丘。

(訪問日:2015年9月27日)








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