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「火花」と「劇場」の言葉たち

私の小説の好みは徹底していて「中身の文章がその人なりの華を持っているか」という点を一番重要視している。小説は文章とストーリーの両輪でできていると思うのだけど、文章がその作家さんなりのその人にしか出せない色をしていたら、あっという間に好きになってしまう。ストーリーテリングのうまさももちろん優れた小説にとってはとても大事なことなのだけど、今回は文章の話をさせてほしい。

私が小説を読む時間において一番幸せなのは、日本語の言葉ひとつひとつを味わうことだ。「ことばを食べて生きています」といいたいほど私はことば、とくに日本語の音感語感、字面が好きで、それにこだわって作られている作品は特に偏愛してしまう。

そういう意味でいえば、又吉直樹さんの「火花」から「劇場」の二作は、たいへん幸せな読書体験だった。もちろんストーリーも素晴らしいのだけど、又吉さんの言葉に対する嗅覚とその選び方、並べ方は、卓越したものがあると二作品を読んで思った。

いま、私の手許にあるのはkindle版の「火花」のみ。「劇場」は図書館にあった文芸誌を読んだだけで、まだ購入していないのだけれど、その上で語ることをご容赦してほしい。(私は最近紙の本じゃなくて、買えるものはすべて電子書籍の形態で買いたいため「劇場」においては、電子書籍版が出るのを待っているところなのだ)

私は又吉さんの「こんな細かいところまで見て書いてるんかい!?」と感じさせる描写を読むと、言葉スキーとしてそれだけで幸せになってしまう。たとえば、冒頭から三文目のこの文章を引用して、説明したい。


沿道の脇にある小さな空間に、裏返しにされた黄色いビールケースがいくつか並べられ、その上にベニヤ板を数枚重ねただけの簡易な舞台の上で、僕達は花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。


これがたとえば、私含むまだ小説を書きなれていない人だったら、「僕たちは舞台の上で、花火大会を見に行く人達に向けて漫才をやっていた」くらいで書き終えて満足してしまうと思う。

その舞台が「裏返しにされた黄色いビールケース」の上に「ベニヤ板を数枚重ねた」ものである、なんていうことは、初心者は書き逃してしまうのが普通だ。これが書けるのは、又吉さんが、どんなに細かく執拗に世界を見ているかということだ。すごいのは彼の目だ。

もちろん、くどく重たく書いていくことだけが、文章の芸ではないのだけど「火花」そして「劇場」に至る又吉さんの文章は、本当に、細かく細かく、一挙一動、目に映るものすべてを、的確な言葉でもって描写していく。そしてその描写された文章が、また小気味いいリズムで、すんなりと味わえるのだった。

また、物語が進むにつれて、人間のおかしみ、かなしみが、どんどん浮きぼりになっていく。そして物語のヤマとなる「火花」のスパークスの解散の漫才にせよ、「劇場」の永田が最後に沙希にたたみかける言葉にせよ、怒涛の勢いを持って奔流のごとくあふれだす、その「彼の芸」の爽快さをたくさんの人に味わってほしいと思う。

又吉さんの言葉は、どの一語、どの文章にしても、死んでいない。言葉そのものが、生きて躍動している。最初の一文から最後の一文に至るまで、気を抜かずに、だれずに、言葉を活かし続けるというのは、並々ならぬ技だ。

又吉さんが言葉を大切に思っていることが、この二作品からは感じられる。本当に、凄い人が「お笑い」という文芸畑以外のところから出てきたものだと思う。

又吉節、これからも楽しみに待っているので、ご自身のペースを大切にされつつ、長く書き続けていっていただきたいと心より願う。

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