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「ナラタージュ」を観て――物語の中の恋に断罪の必要はない

映画「ナラタージュ」公開されたので、今日観てきました。

公開数か月前の6月に「映画『ナラタージュ』への静かな期待」というエッセイを書いた手前、公開されたらぜひとも感想を書かねば!と思っておりました。

雨の音と匂いのする、静謐で激しい映画でした。ロケは私の住んでいる富山県でその多くを行ったらしいのですが、今日行った映画館にロケ地マップも置いてあったので、頂いてまいりました。

(ここから先はネタバレを含みますので、内容知りたくない方はご注意ください)

原作・映画ともに「ナラタージュ」にどっぷり入り込める人は、人も自分自身も断罪しない人かもしれない、と観てから感じました。

そもそも葉山先生は(奥さんが病んで別居とはいえ)既婚者だし、葉山先生に恋をする泉は先生の高校の教え子だし、教え子とどうこう、しかも不倫、って、見る人によっては「葉山先生が駄目すぎる、(教え子にここまでよりかかるなんて)弱すぎる」でおしまいかと思います。

葉山先生の弱さは、原作を読んだときに同時期に同じ本を読んだ人から指摘されて「そうかな?」とそのときは理解できなかったのですが、映画を観たら「ほんとだー!!!」と実感しました。

途中で泉の彼氏となる小野くんにしても「携帯見せて」っていうとか、暴力的な物言いや行動をするとか、駄目なところは多いですよね。坂口健太郎さんの演技は圧巻でした。

そして、主人公の泉にしても、葉山先生のことをふっきろうとして小野くんとつきあったけれども、最後には「やっぱり私、葉山先生のもとに戻る」と、小野くんを傷つけている。

三者三様に「人として駄目」な部分があるわけです。そこが非常にリアルだなあと思いました。そうして、その駄目な部分を許せないと思いながらこの映画を観てしまうと、たぶん、面白いとは思えないでしょう。

と、ここまで感想を書いて、私、自分自身に思いました。

「私自身が(近頃のマスコミの不倫バッシング報道の影響で)断罪フィルターをかけてしか映画を楽しめなくなってないか!?」ということです。

太宰治が、小説「人間失格」の中で、

(それじゃ世間が、ゆるさない)
(世間じゃない、あなたが、ゆるさないのでしょう?)

と書いたシーンがありますが、この日本という国の中で、ネットの発達にもより、とくに不倫や道ならぬ恋に対して(それじゃ世間が、ゆるさない)という空気感は、ますます発達しているように思えます。

と同時に、個人の心の中での「断罪モード」「断罪フィルター」も、だんだん発達しているのではないのだろうかと感じるのです。

そうして、この「断罪モード」がいきすぎると、物語の中の人物にまで、自分の正義の尺度を押し付けてしまう、それってどうなのか? と私は思います。私自身は別に不倫推奨ではないですが、物語くらいは、素直に「道ならぬ恋」にドキドキしたい。

映画を観ながら、自分の「断罪フィルター」がとにかく邪魔!って思った、二時間二十分の上映時間でした。そして、国によっては、こういう恋愛に対する「断罪フィルター」は日本人みたくかかってないのかもしれないなと思ったりもしました。

松本潤さんは「弱っている」顔が素敵でしたね。あの顔でこてんと甘えられたら、ぐっときてしまう気持ちわかります。普段は明るい印象ですが、今回は本当にトーンを落として、暗めの印象に仕上げてきたのがよかったなと思いました。黒ぶち眼鏡が似合ってました。

坂口健太郎さんの小野くんは、本当にナイスキャスティングで。私の中の小野くんの原作イメージとぴったりでした。本当に怖かった(褒め言葉)

有村架純さんの泉も良かったです。男二人の駄目加減に関して、若干「はぁ!?」って感じでキレ気味だったところがなおよかった。ツボに入りました。ベッドシーンもとてもきれいでした。

というわけで、長々書いてしまいましたが、私は島本理生さんファンなので、また作品が映画化されたらいいなあ、なんて夢見ています。「よだかの片思い」とか、良いと思うのですが、いかがでしょうか?

皆さんも観に行かれるときは、心の中のいろんなフィルターをとっぱらって、物語にひたってみてくださいね。



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