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【読書日記】虎のたましい人魚の涙


私の趣味は読書だったり、お絵かきだったり、基本的に1人で完結してしまうものばかりなのだが、1つだけ、他の人と交流する趣味がある。俳句だ。
(ちなみに「ほしのあお」は俳句のためにつけた俳号です。)

え?俳句なんて1人で詠めるでしょ?と、俳句をやらない人は思うかもしれない。
私も始めるまではなんとなくそう思っていた。
でも、俳句は座の文芸とも言われ、詠んだ句を鑑賞し合うというコミュニケーションがあって、これがべらぼうに面白い。まあ、緊張もするんだけど。

私も毎月、オンラインの句会とリアルな句会に参加して、投句と選句と選評をやっている。
俳句を詠むことと鑑賞することは密接に繋がっていて、どちらか片方だけが突出して上手い人には会ったことがない。

私が俳句を始めたのは2019年。ニュージーランドに住んでいた頃だった。
松山市の『俳句ポスト365』へのメール投句だったので、ニュージーランドからでも参加できたのだ。(ちなみに俳句ポスト365の選者は夏井いつきさん。私は俳句集団いつき組の組員なので、組長と呼んでいる。いつき組は誰でも勝手に名乗れます。)

ニュージーランドの季節は日本と正反対なので、私は(ニュージーランドの)夏に冬の句を、(ニュージーランドの)冬に夏の句を詠んで投句していた。
季語を観察したり実感しながら詠むのは残念ながら不可能で、私の俳句はいつも記憶力と想像力だけが頼りだった。

最初の頃は俳句の決まりごと(?)がよく分かっていなくて、俳句の五と七と五をそれぞれ「上五」「中七」「下五」と呼ぶのも知らなかったし、上五中七下五の間をあけて表記してはいけないことも知らなかった。

俳句の鑑賞の仕方もさっぱり分からなくて、俳句ポストで天や地に選ばれた句の良さが分からないことも珍しくなかった。

基礎やcriteria(判断や評価の基準)を知ることで、作品を理解するヒントが掴める、そういうことが世の中にあるのだと知ったのは、俳句のおかげだ。

そして。そういった俳句のいろはを少しずつ理解できたのは、俳句を通じて知り合った句友さんのおかげである。

句友さん達の中にはさまざまな職業、人脈の人がいて、すごい経歴や人脈の人ほど謙虚で、いろんなことを惜しみなく教えてくれるのだった。

私がくどうれいんさんの存在を知ったのも句友さん経由だった。
俳句を始めて間もない、2019年のことだった。
たしか「うたうおばけ」のウェブ連載をおすすめして貰ったのだと思う。

れいんさんは俳句の人であり、短歌もエッセイも小説も……の人なのだが、俳句を趣味としている私は、彼女のエッセイの中に俳句の話が出てくるとウキウキする。

「虎のたましい人魚の涙」の中には、れいんさんが私の住む街を訪れた話も出てくる。これはもうウキウキどころではない。くるくる回り出しそうに嬉しかった。
嬉しいことがあるとくるくる回ってしまう私なのだ。

れいんさんの言葉で描写されるふるさとの街。何度も読み返してしまった。

一方で、この本の中にはれいんさんの苦しい気持ちや悔しい気持ちのエッセイもあって、誰かのつらい気持ちを作品として消化してもいいものなのだろうか?とドキドキしてしまう。

でも、れいんさんの『だれに見せても恥ずかしくない作品を、できるだけたくさんの人に見てほしいと思っていた』という文章を読んで、ああ、そうか、作者の渾身の作品を読者として正面から受け止めればいいんだなと思った。

そういえば、俳句はとても短い詩なので、季語の力と読者を信じて、えいやっと詠む。みたいなところがあるな、と思い出す。

そうそう、私の住む街にはれいんさんの「わたしを空腹にしないほうがいい」が置いてあって、新刊のサイン本も入荷するすてきな本屋さんがある。
「本の轍」さんって言うんですけどね。
松山に来られる時はぜひ足を運んでみてほしい。
本好きな人は間違いなく満足して帰ることになると思う。

最後に。
私が詠んだ句を4句、置いておきます。
それぞれ春夏秋冬です。

春風やハンドベル部の運ぶ椅子
夏シャツの腕際やかに脈を打ち
くりかへす名もなき家事や稲の花
凩の匂ふ柴犬ほめてやる


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