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『自己紹介』 ひどい目に遭ったけど

はじめまして。ホシ ツクヨと申します。
新潟市在住です。
実は、新潟市は5番目の故郷です。まぁ、県内なんですけど転々としました。
どうすればいいですかね。地域ごとに病気の原因があるので、過去から暴露していきます(笑)

出生地は新潟市北区

私の中で一番古い記憶は、父と母の夫婦喧嘩かな。
父は暴力男で仕事もろくにせず、母が生活費を稼ごうとしても正社員では自分の格が下がるので、母はずっとパートで働いていました。

そして、母の方は私に厳しく当たりました。私には妹がいますが、何故か私には怒鳴り声で家事の手伝いを急かしていました。失敗したら尚、声が大きくなります。

母は2年前に亡くなったのですが、姿を消しても私には急かされるプレッシャーと緊張が今も残っています。

夕飯の支度をしていると、味噌汁を作りながら野菜炒めの具材を切ったりとか例えばですけど、ながら家事って日常茶飯事ですよね?
でも、私はながら家事をしていると自分で
「あぁ、これは二度手間でタイムロス」
「もっと手際よく」
「もっと丁寧に」
というように自己評価をしてしまいます。それも低い自己評価をするため
「また怒鳴られる」
「また無視される」
と恐怖や緊張を自分で作り上げてしまいます。

これは、20代の頃の上司にとどめを刺されたのでなかなか治りません。この話は後ほど。

今思うと、この頃から社会不安障害を発症していたのかもしれません。人といるよりひとりの方が好きでした。
そして、学校ヘ行くことに対してもいつの間にか
「逃げたい」
と思うようになっていました。

そう、この「逃げたい」「逃げなければひどい目に遭う」とまるで殺されるような緊張は、40代まで私につきまといました。


2つ目のふるさとは父の実家

小学4年生の頃に引っ越し・転校しました。
同じ新潟市北区なのですが(笑)もといた町より少し賑やかで大きい故郷です。

そこで私はイジメに遭いました。
私としては、ひとりの方が好きなので放っておいて欲しいのですが、何故でしょう?イジメって向こうから喧嘩を仕掛けてきますよね?(笑)

ひとりの方が好きなので「好かれなければ、ボッチだ」という強迫観念は私にはありませんでした。
あの旭川で凍死した少女にも私のようにガサツな面があれば、と加害者に怒りをおぼえます。

ただ、授業中も見張られていて少しでも変なこと(消しゴムを床に落とすとか些細なこと)をすると集団で笑います。
この監視されているイメージが私の頭の中では次のような感じです。
暗い教室で私は席に着いています。
私のまわりには無数の目が存在し、私を睨んでいます。

このイメージは後に教室だけじゃなく、電車の中やバスの中でも監視されていると緊張し、動けなくなって終点まで降りられなくなるのです。

私としては、同級生たちの方が不思議な生き物のように感じますが、日本人って仲間の中にいる方が優位と思いがちですよね?
というように私は人を分析する嫌な奴でした(笑)

そう、この性格が功を奏したのかもしれません。他人の思想の中に入らず、客観的に考えられたので不安障害はありますが、鬱に陥ることはありませんでした。

3つ目の故郷では、イジメには遭いましたが深く傷ついた事件は起こりませんでした。

4つ目の故郷は温泉街

新潟市から30キロくらい福島県会津若松ヘ向かう山の中へ中学1年生のときに引っ越し・転校をしました。

その村はというと面積は広いのですが、人口は少なく閉鎖的な思想の大人ばかりだったように思います。
引っ越して半年くらいの頃に同級生の男子につきまとわれました。ただ、私はその人と話したこともなかった🤔🤔🤔と思うんですよね~。

ここの中学では、担任もイジメに加わっていました。なので、私には味方がいなかったのです。
父にも母にも相談はしませんでした。というか言い難かったのです。
村の人の気質は妹の学年も同じで、妹はイジメで引きこもりになりました。

高校1年生のときに両親が離婚。私は母と妹は父と暮らしました。妹たちは新潟市東区へ引っ越したのですが、1年くらいで父のネグレクトが発覚し、母が倒れている妹を保護しました。

その頃には、先天性の精神患者ではなくても診察を受けられるくらい精神科の敷居が低くなっていました。(昔はね、偏見が激しかったのよ)妹はスッポンポンで外に出てフラフラするくらい壊れていたので、大学病院の精神科に通うことになりました。

高校2年生の頃、母に恋人ができて母が私に嫉妬するくらい私を束縛する男でした。
もともと他人の思想の中に入るのを嫌がっていた私は「家を出たい」「でも、自立するためには勉強をしておいた方がいい」と悩んでいました。

3年生のゴールデンウィークに「突発性難聴」で入院しました。聴力は点滴を打つともとに戻るのですが、それから35歳くらいまで繰り返し繰り返し再発していました。

高校を卒業してから今度は「脱毛症」になりました。これは、今でも年に2回は再発しています。
ただ、1回目のこのときだけは頭の大部分が抜けてしまいました。

20歳になったばかりのとき、ついに母の恋人が襲いかかってきました。その男とは何もなかったのですが、その男の仲間に性暴力を受けました。

そして、母はその男と別れ私たち女3人所帯は新潟市東区へ引っ越したのです。嫌な記憶を山に残して(笑)いや、不幸の女神はまだついてきてました。

5つ目の故郷 新潟市東区

24歳のときに正社員で、ある会社に勤めました。
私は母にしごかれているので仕事は早い方でした。ですが、それが気に入らない同僚もいるのです。

入社2年目で役職について、いっそう風当たりが強くなりました。
実はこの頃すでに社会不安障害の症状がピークに達していて、この会社に入るまで10件以上入社退社を繰り返していました。
なのでいい加減「逃げたい」は封印しなければと自分にプレッシャーをかけていました。

役職になり仕事も増えて責任も重くなり、今度は同僚や部下たちとパワハラ上司も加わりました。

その上司の思想の中には巻き込まれないよう気をつけていたのですが、「怒鳴り声で説教」「暴力」「怒鳴り声で説教」「暴力」と繰り返されると人はマインドコントロールされるそうですね。
あの頃の私は、可怪しかったのかもしれません。

大きな声と暴力から離れたいけど、「逃げたい」と考えるのは悪だ。上司は「お前が変われ」と言っていた。ならば、早く仕事が仕上がるよう退社後に準備をすればいい。

という悪循環に陥っていました。この頃、私の睡眠時間は3時間。26歳の頃には性暴力も受けていて、2人流れています。それでも、休暇も通院も認めてもらえず意識が飛ぶこともありました。

そのうえ、女の同僚たちの嫉妬も爆発してしまい、最悪ですが監禁されて集団リンチ、集団暴行され出血が止まらなくなり気を失ってしまいました。

病院で先生に告げられたことは「もう子どもは産めません」でした。

たぶん、イジメ被害者の方も被害者遺族の方も強く望むことは

「元通りの体に戻してくれ!!」

ですよね?
私もこの願いに取り憑かれたように、加害者たちを恨み、恨み、何度も頭の中で殺しました。20代の後半で何もかも奪われたという絶望と、どん底の底を這ってもがいて、また泣いてーーーという感じでした。

それでも、母は私に転職先を見つけてきます。
私の本音は「少し休みたい」なのですが、急かされるマインドコントロールをかけられている私は
「まぁ、動いていた方が忘れるかもね」
と再就職を目指しハローワークへ通うことにしました。

そのハローワークの相談員の方が私の異常に気づいてくれたのです。
「今、いい薬ができているから」
と元看護師のその方は私に精神科の受診を勧めました。

精神科では、最初に知能検査をしました。
結果は、文章の並べ替えには時間がかかったみたいですが、右脳的なテストは抜群だったそうです。
ちなみに右脳の知能数は130でした。それが世の中に活かしきれてなくて申しわけありません💧

精神科医には「社会不安障害」「PTSD」と診断され、カウンセリングではマインドコントロールに私が気づくのが3年くらい掛かってしまって、それを解くことに2年くらいかかりました。

それから「社会不安障害」を認知行動療法と薬の処方で治療しました。というか、まだ進行中です。

40代に入った頃、こうなる前の体に戻りたいけど時間は戻せないし10年、20年、30年分の人生を捨ててしまってもいいかなと思えるようになりました。

5年前に妹が「急性骨髄性白血病」になりましたが完治しました。そのときの血液内科の先生にとても丁寧に説明していただいて、初めて真面目な人間の存在に気づき、感動しました。

私より20歳も若い先生でしたが、わからないことを質問すると図に描いて説明してくれるのです。それには母も感動して
「私、男の人に優しくされたの初めて」
と乙女なことを言ってました。
そろそろ気づくと思いますが、私は恋愛感情のない人間です。

その2年後かな?母が「肺がん」に侵されました。
母の主治医も誠意の塊みたいな人で、母には手術を受ける体力がないからと、いろいろな抗がん剤や治験など見つけてきては提案してくれる先生でした。

はじめは薬がよく効いて、がん細胞も減っていったのですが、だんだん効かなくなり薬を強くしていくことで副作用も強くなりました。

副作用で嘔吐を繰り返し、脱水状態になったり体力も免疫力も低下していきました。体が自由に動かせないので、母のイライラも溜まっていきます。
母に強く当たられても、私が母から受けた八つ当たりみたいなことは、してはいけないと思っていたので最後まで母には優しく介護することをやり遂げました。
今まで受けたイジメの加害者たち、私の体をボロボロにした加害者たちへの復讐の意味もありました。

人間は、暴力を暴力で返さないこともできるんだ

と示したかったのです。
私は母を恨んではいません。私が初めて「愛してる」と言った相手は母でした(笑)

今、妹と2人で暮らしています。母が亡くなって初めて私を急かす存在がなくなりました。妹には
「これからで申しわけないけど、人生をやり直しませんか?」
と問いました。妹には妹の母や父への恨みがあるはずです。これから、2人で平凡に生きていきたいと願っています。

長くなりましたが、最後までお付き合いいただいて本当にありがとうございます。

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