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村上春樹の短編『沈黙』の語りの構造について語るときに僕の語ること。

先日、村上春樹氏の短編『沈黙』を読む読書会に参加したのだが、その際に解釈をめぐってちょっとした争いが生じた。どうも文学者の出番のような気がするので、自称文学者の僕としてはちょっとおせっかいをしてみようかなと思う。

どうも両派閥の争いの原因は、作品の主要人物である「大沢さん」の言っていることをどうとらえるか、というあたりにあるようなのだけれど、作品の語りの構造を冷静に分析してみると解釈に差が生じることに多少は納得がいくんじゃないかなあ、とおもうのです。

まあ、簡単に言ってしまえば、文学作品の解釈は個人の自由なので、どんな風に読んでもいいんだけどね。ただ、ここで僕がやろうとしていることは、作品の解釈をする手前に戻って、作品がどんな「かたち」をしているか、そしてそこからどんな作用を読み手に与えうるか、ということを考えてみよう、ということなのです。

『沈黙』の語りの構造

『沈黙』の語りの構造を大雑把に図にしてみたのでひとまずこれを見ながら考えてみようと思う。

ここで注目したいのは、大沢さんの語りを聴く「僕」という存在が差し込まれていることである。最初と最後の部分は「僕」の語りで締めくくられ、大沢さんの直接話法の語りが始まってからもところどころで「僕」が出てきて大沢さんの話をまとめたり、ちょっとした情景描写をしたりして、大沢さんが一人で誰かに語っているというのではなく、その手前に聞き手の「僕」がいる、ということを意識させられる構成になっている。

この、話をほぼ黙って聞いている「僕」という存在がいることがこの作品を、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』などに代表される、いわゆる”一人称語り”の小説とは異なったものにしているポイントなのではないかと思われる。

ここで、読書会において議論された読み方を大きく二つに分けて整理してみよう。

一つは、大沢さんの語りを素直に受け入れ、この話を「いじめ」や「自殺」、「暴力」、「深み」という道徳的、哲学的なテーマを扱ったものとして読む、という読み方であった。学校の先生方が喜びそうな読み方だ。この短編が教科書に取り上げられることになったのも教育的な読み方をしやすいからだろう。

もう一つ、読書会でも比較的若手の参加者に多かった読み方は、大沢さんの言っていることはあくまでも大沢さんの主観に基づく内容であるから、そのすべてを事実として認めることは出来ないんじゃないか、というものだった。つまり、大沢さんが受けたといっているいじめの内容や、その主犯とされる「青木」という同級生の人物像には、多分に大沢さんの思い込みや認知の歪みから生じる誤解が含まれている可能性があるのであり、大沢さんはホールデン君のような「信用ならない語り手」なのだ、というわけだ。

確かに、19世紀の小説のような全知の三人称の語り手によって語られる物語でない限り、そこで語られていることを絶対的な事実である、と捉えることは不可能だ。当然ながら大沢さんの言っていることが客観的事実であると断定することは出来ないし、どうも思い込みがあるようにも思われる。

この短編を読んでいると、大沢さんの語る内容が「いじめ」だとか「暴力」だとか「深み」などといった、いろいろと考えさせられ、論じたくなる重いテーマを扱っているため、ついついそこに目が行きがちだし、さらにそれとこのちょっとクセのある語りの構造がごっちゃになって読み手は混乱しがちだなあという感じがする。

でも改めて作品の「かたち」に注目してみると、「いじめ」だとか「暴力」だとか、もっと言うと大沢さんの言っていることが事実なのかどうか、ということを考えさせよう、というのが本当に作者の意図だったのかなあと思えてくる。確かにそれもゼロじゃないとは思う。でもそうしたいのだったら、なぜわざわざ「僕」という聞き手兼語り手を挿入する必要があったのだろう。地の文の語り手は常に「僕」であり、大沢さんの語りはいつも鍵かっこ付きでなされていることにも注目してほしい。大沢さんの語る内容が主題なのであれば、それこそ『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のように大沢さんの語りを地の文にして、一人語りをさせたってよかったわけだ。

そうかんがえると、大沢さんはこの作品で長いセリフを話す登場人物であり、本当の語り手は「僕」である、という風に見えてくる。

先日、Youtubeである精神科医の人の「心に傷を負った人を癒そうとするには」というような内容の動画を見たのだけれど、そこで言っていたのは、そういう心に傷を負った人の話を聞くときには、感情移入してはならない、良いとか悪いとかの評価もしてはならない、常に心をポジティブでもネガティブでもないゼロ地点、フローの状態にして語られる内容と一定の距離を取って聴く、というのが理想だ、とのことだった。

大沢さんは心に傷を負っている、もしくは負っていた人物だと思う。その彼の語ることには当然ながら思い込みやエゴや誤解が少なからず含まれていることだろう。でもこの「僕」はその内容について価値判断を下そうとはしていない。話を整理することはあっても、むしろ目の前を過ぎていく飛行機などの情景の描写に「僕」の意識は注がれている。過去に辛い経験をした人の話を「沈黙」の中で聴くこの「僕」という存在にこそ、本当の意味での作品の焦点は当てられていて、この短編を通して村上さんが読者に示したかったのもそういう「聴く」という行為なんじゃないかなあと僕は思うのだ。

そして最後に「ビールでも飲みませんか」だなんて、しびれるネェ。


後記

この記事を書いていて、この『沈黙』というタイトルはものすごく理にかなっているというかこれ以外にはありえないんだなあということを強く感じた。というのは、この短編自体が、いろんな沈黙のオンパレードのようなものになっているからだ。ボクシングの「深み」の中での沈黙、いじめられた時の顔のない群衆の沈黙、傷つけられた大沢さんの沈黙、自殺した同級生の沈黙、青木と見つめあい、許すときの沈黙、経験を語り終えた時の大沢さんの沈黙、そして話を聞いている「僕」の沈黙。ことばにならないはずの沈黙をことばで書くとは、村上春樹もやっぱり侮れないですな(笑)。

そして同時に感じたのが、これがまさにカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』に対するオマージュになっている、ということ。本家はまさに「聴く人」の小説ですもんね。


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