2回目の休職
昨日書いた「1回目の休職」にひきつづき、
2回目の休職について書いていこうと思う。
休職のきっかけ
昨日書いたとおり、1回目の復職後、1年間は何事もなく仕事をしていた。異変があったのは2月末、異動時期を控えてのことだった。「仕事について」で書いたとおり、1回目の復職をするとき、産業医面談に同席していた職員に、ストーカーの人と同じ職場にならないような配慮はできるか聞いたら、それはちょっと…と言われたのが頭にひっかかっていたのである。
公務員の異動スパンはだいたい3年に一度であるから、ストーカーの人が異動するとしたら、今年だと思ったのだ。そこから、なんとか上司に、同じ職場にならないような配慮ができないものかもう一度相談したものの、調子を崩した。どこにいても、その人がどこかにいるような、あるいは安全でないような気がして怖くてたまらなくなるという症状がでた。それは家でも、電車でもところ構わずだった。何かしていれば気がまぎれるので、仕事や読書にうちこむことで気を紛らわせていた。主治医には休職をすすめられたが、正直言ってあの状態で休職をしても、家でなにもしなければ怖い状態が続くので、断って仕事を続けた。
なんとか8月まで仕事を続けていたが、2月から始まった症状はおさまらず、だんだんと、どこにいても怖いのなら、死ぬしか怖い状態から逃れる方法はないのではないか?という思いが湧き上がってきた。今考えればおかしい思考回路だが、当時はそこまで追い詰められていた。
そして8月の頭、私から主治医に申し出て休職となった。
休職後、ほどなくして入院
休職したのはいいが、日中は1人で家にいる生活で、希死念慮はおさまらず、調子の悪い日々が続いた。「死にたい」よりも「死ななきゃ」と思うことが多かった。
ある日、調子が悪くて臨時診察を入れた。新しい薬が増えただけで特に変わりない診察だった。そして、ふと、本当にふと、あ、このまま死んじゃおう、海に行って溺れよう、と思って電車に乗った。電車に乗ってから、彼氏(今の夫)に今から海に行くから、とLINEした気がする。
なんだかんだ実行するのが怖かったのか分からないが、彼氏に迎えにきてもらい、入院しよう、と言われた。翌日病院に行き、入院の手続きをした。
入院生活
入院生活はあまり覚えていない。とにかく暇で、本を毎日1冊ずつ読んでいた気がする(調子のいい時は。)でも「死ななきゃ」という思いは消えず、親や彼氏に電話しては泣きじゃくっていた。入院したからといって何か特別な治療があるわけではなく、先生の診察も週一だし、看護師さんのほうから話しかけるようなことも特になかった。これなら入院しなくたって一緒じゃないか、と思った。
血液検査をして、甲状腺の値が少し低いと言われた。リーマスという薬が、甲状腺に影響するのだという。甲状腺が少しでも低いと、死にたいという気持ちが出ることがある、と言われた。リーマスを減らすことになった。
父親があまり入院に対してよく思っておらず、私の調子はよくなっていなかったが、退院後の環境を整えて退院できるよう取り計らってくれた。退院後は、同棲していた家ではなく実家で暮らすことになった。父親か母親が常にそばについているよう休みを調整してくれた。
退院後から復職まで
退院後、母と一緒にいることが多くなった私は、母のすすめでセーターを編み始めた。これが治療によかったようで、(それともリーマス減らしたからなのか)調子は徐々に安定しはじめた。
しかし、仕事のこと、復帰のことを考えると調子を崩すことも多かった。いっそ復帰してしまえば調子は安定するのではないか、と思い、退院後1ヶ月半経ってから、主治医に申し出て復職の許可を得た。
90日間は休職ではなく療養休暇の扱いだったので、私はそのギリギリの11月に復職した。ただ復職プログラムはないので、自主的に朝早く起きて出勤と同じ時間に家を出て電車に乗る練習をした。復職後は案外あっけなく、スムーズに仕事に戻ることができた。
しかし12月に入ってから、過食が目立つようになった。おそらくリフレックスの影響によるものだと思う。そのことによりリフレックスを無理に減らしたためにだんだんと調子を崩し、3回目の休職に至っている。
3回目の休職については完全に薬の調整によるものなので、特に記事にはしない予定である。(復職したら記事にするかも…?)
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