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かつての炭鉱町にあった小学校跡地にポツンと残る、或る人の一生ものの記憶

『 私は、神林で、四年生まで、いました。それから、伊王島にいきました。
神林の時の、思い出は、記憶がありません。残念です。
私の祖父は、鍛冶屋でした。うたがうらでした。
神林の学校は、楽しかったことだけ、記憶にあります。
本当に記憶がないんですよ。
先生が優しかったです。それだけ、おぼえています。
神林の一年生の担任は、ふじまつ先生かもしれない。女の先生でした。
クラスの子が、床に何かを、こぼした時に、私が床をふいてあげたら、先生が私に、優しいね、といってくれたのを、今も覚えています。
先生から、ほめられた事は、私の人生で、これだけかもしれません。
鮮明に、おぼえてますよ。先生ありがとう。
私は、還暦になっても、おぼえてますよ。
その時の、光景もはっきりと、おぼえてます。

先生、私は、元気でがんばって、生きてきたよ。
これからも前を見て、生きますよ。生かされていることを、感謝して忘れません。 』

・・・これは、長崎県の北部、当時の北松浦郡鹿町町(現・佐世保市)にあった「神林(かんばやし)小学校」に在籍された方より私の記事に寄せられた思い出のコメントです。

神林小学校は昭和13年に操業を開始し、37年に閉山した「神林炭鉱」の元、西日本各地から集まってきた鉱員さん家族の子ども達が通った小学校です。

何も無かった田舎町に炭層が見つかると、急激に人が集まることとなりました。

最新式の設備を誇った鉱業施設のほか、入院施設を持つ病院、浴場が5ヶ所、配給所が3ヶ所、理髪店3軒、毎日映写していた映画館(会館)なども造られました。
鉱員寮や看護婦寮はもちろん、炭鉱住宅は神林・深浦地区全部で729戸あり、従業員数も最盛期の昭和33年には職員88名、鉱員974名を数えています。

しかし、閉山後人口は急減し、閉山から9年後の昭和46年に閉校となりました。

現在、敷地一帯は、そんな賑わいがあったことすらも夢であったかのような寂しい光景が広がっています。

毎日、多くの子ども達と先生とのやりとりが行われていたであろう、その場所も、すっかり雑草に覆われてしまい、その情景を思い浮かべることすらも難しくなっています。

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しかし、その場所に、冒頭で紹介したように、ひとりの方の胸中に、鮮やかな「思い出」が残っているということは、大変感慨深いです。

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それは、きっと当事者の先生の方は、忘れてしまっていることなのでしょうが、その子がふと行った「小さな行いの価値」を見逃さずに、それを言葉にして褒めてあげたという、その先生の慈愛が為したことなのでしょう。


それが、ひとりの人間の心の中で、生涯生き続け、今もって「先生、ありがとう!」と思わせるもの。
とっても考えさせられます。

この方は、”伊王島に行きました”と書いています。
日鉄伊王島炭鉱も昭和40年には閉山していますから、その後また転々とされて、幾つかの学校へも通ったことでしょう。

こういうエピソードに出会ってしまうと、かつて長崎県内に無数にあった炭鉱町のことをもっと(私の人生の時間が許すかぎり)知らべて、記録しておかねば、と思ってしまうのです。

(画像はいずれも、北松浦郡鹿町町立神林小学校)

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(写真は神林鉱業所本部)

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神林鉱業所診療所

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神林保育所

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神林簡易郵便局

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運動場拡張作業中の神林小学校

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昭和24年に撮影された神林小学校全景

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昭和32年に制定された神林小学校の校旗

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昭和37年頃の神林小学校空撮。中央校舎は解体され、グラウンドに「カンバヤシ」の児童による人文字が見えます。

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