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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2020年9月の記事一覧

反骨だが優しい目を持った京都の画家・伊藤仁三郎さん

2010年の10月頃、海援隊の前身「亀山社中」のそばにあるお土産物やさんで目に止まったある絵はがきセット。 長崎を描いたもので、絵が気に入ったので購入し、その時に店の方に作者は誰か、とたずねたのですが、混雑の中でもあったので、「もう亡くなった人」だとしか、聞き取れませんでした。 カードのどこにも文字がプリントされておらず、何の情報もなかったので、勝手に「名も無き、地元の作家さん」だと、決め込んでおりました・・。 と言うのも、この夜の長崎港の空気感は、地元に住んでいる者で

世界新三大夜景のひとつである長崎の夜景の礎は、対州馬と人がつくった

平成24年、夜景観光コンベンション・ビューローにより「世界新三大夜景」のひとつに選ばれた長崎市の夜景。 それはデザインされた高層ビル群の夜景でもなければ、壮麗な宮殿等のイルミネーションの夜景でもありません。 港をぐるっと囲む山裾に這いつくばうようにして建ち並んだ家々のともす灯りがつくり出す、言わば「素朴な生活の灯の夜景」なのです。 そしてその、ひとつひとつの灯りの元となる家屋の多くは、名もき馬たち、特に対州馬と人によって作り出されたものであることを忘れてはならないと思います

平成26年に閉店した長崎玉屋は、派手さはないが地元に愛されたあたたかな百貨店

平成26年2月末で長崎玉屋(正式には、佐世保玉屋長崎店)は昭和44年の開業以来、約45年の歴史に幕を降ろしました。 画像は最終日の長崎玉屋の姿です。ただ外観を見ただけでは、「老朽化が否めない地方百貨店」と映るかもしれませんが、この長崎玉屋の「在り方」はいろんな意味で、今後の大規模商業施設にとって手本とすべき、或いは多くの教示を与えうるエッセンスがあるように思われます。そのことを確信させる光景が、この最終日に幾つも垣間見えました。 最終日、店内には多くのお客が詰め掛け、たい

長崎人の愛する2つのサラダ・パン-「東洋軒」と「ますさきのパン」

長崎人の多くが好む2つのサラダパンがあります・・・ まず「ますさきのパン」のサラダパン。 お店は歴史博物館向かいにあります。「長崎市玉園町」 創業は大正7年。写真は昭和34年に撮影されたもので、馬車でパンを販売していた頃のものです。看板には「パン食普及宣伝販売」とあります。 そして「東洋軒」のサラダパン。 お店は思案橋の入り口にあります。「長崎市本石灰(もとしっくい)町」 創業は大正6年。写真は昭和31年頃のリヤカーでの販売の様子です。 今では考えにくいことです

路面電車の軌道跡である勝山市場にあったお婆ちゃんの小さなお店、閉店

タイトル通り、路面電車の軌道跡である斜面に出来た勝山市場にあった、なじみのお婆ちゃんのお店が、いつの間にか、ひっそりと閉店していました。 久しぶりに、あのお婆ちゃんのお店でパンを買って食べよう」と、久しぶりにやって来たのですが・・・・ 数年前に撮ったお店。 うちの娘を、まるで自分の孫のように優しく接してくれたおばあちゃん。うちの「市場のおばあちゃん」でした。(2011年撮影) はじめて、このお店に来た時、なつかしいサラダパンを見つけたことが、きっかけでした。私がパンを

長崎・坂の小径さるき(歩き) のススメ

次の方に、特にオススメです・・・・ ・ツアーもいいけど、自分ひとりで、気ままに歩くのが好き ・車の排気ガスや騒音がダメ、群衆のワイワイも苦手 ・その土地のヒトやモノとの、思いがけない出会いが楽しみ ・昼間がっちり歩いて(カロリーを消費して)、夜に美味しいものを食べたい ・自分だけの風景や光景を発見したい ・お決まりの観光コースには、もう飽きた 【 このコースのさるき(歩き)方 】 ①まず長崎の街のどこでも、構いませんので、何となく「好みの?」小径へ入っていってください。

一度もちゃんと見たことがない・・・それでも楽しかった諏訪神社祭礼・おくんち

「お祭りなのに、見たことがないって、どういうことか?お祭りと言えば参加できるものも少なくないというのに・・・」 と思われるかもしれません。 しかし、長崎に生まれ育って半世紀、奉納踊りはテレビでしか見たことがありません。そして今後もきっと見れないでしょう・・・ 画像にあるような山車というか曳き物を目に出来るのは、披露場所やあいさつ廻り(庭先廻り)の移動途中だけです。 踊り場や境内に設置された観覧席から奉納踊りや演技を見るには有料チケットが必要であり、入手も容易ではないから

戦艦 武蔵を建造した第二船台とガントリー・クレーン

三菱長崎造船所、立神付近の風景です。工場の向こうに見える赤く錆びた鉄骨・・・。誰も気にも止めないであろう、この鉄骨こそが巨大戦艦「大和」の同型艦「武蔵」が造られた第二船台のガントリー・クレーンです。 海側から見るとこんな感じです。ちょっと見にくいですが、「 BERTH no2 」とペイントしてある場所が第二船台で、奥の方にガントリー・クレーンが残っているのを確認できます・・・ 俯瞰図で見ると、こんな感じですね。 もともとガントリー・クレーンは第二船台にだけあったわけでは

スコップに刻みつけた我が子への思い~中興鉱業江口炭鉱

中興鉱業江口鉱(松浦市調川(つきのかわ)町下免(しもめん)・・・、昭和11年に設立した中島徳松氏・経営の中島鉱業株式会社の名で呼ぶ人も多いかと思います。 中島鉱業の沿革について述べると、やたらと複雑になるので大半は割愛しますが、江口鉱は「中島江口」「大成」「中島志佐」の3鉱を統合したものを「中島江口炭鉱」と称し、鉱業所本部を調川・江口に置きました。 昭和33年1月中興鉱業は中島鉱業時代に欠食児童を出し、学校やPTAにお世話になったとして調川小・中に対し放送機器・ラジオ・スピ

飛島炭鉱へゆく ② (松浦市今福町)

どうしても間近で見たかった、あのボタ山と送炭線の支柱が段々近づいてきました・・・。 支柱は鉄筋の中をコンクリートで埋めてあり、がっちりとした作りとなっています・・・。 支柱は背後の草むらの中へと続いています。この奥に鉱業所があったものと思われます・・ 海岸に突き出た積み出し桟橋です。こちらもだいぶ劣化していますが、ちゃんと形をとどめています。 この先に船が着いていたわけですね。コンクリの上にあったであろう、コンベアは閉山後取り外されたか、穴だけが残っています。 その

飛島炭鉱へゆく ① (松浦市今福町)

「近くて、遠い島」・・・それが飛島(とびしま)炭鉱のあった松浦市今福町、飛島です。 松浦市今福港からはこんなにも近くに見えるのですが、フェリーの便数が少ないため、そうやすやすと行ける場所ではありません。 しかし、だからこそ、行ってみたくなるものです。フェリーは今福港と鷹島の殿ノ浦港を往復する途中で飛島に寄りますが、ダイヤの関係で、今回は鷹島の方から渡ることにします・・・・ (島の最も右側に見えるおにぎりのような山の部分が炭坑時代のボタ山です。) 福島町から見た飛島。左側