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スコップに刻みつけた我が子への思い~中興鉱業江口炭鉱

中興鉱業江口鉱松浦市調川(つきのかわ)町下免(しもめん)・・・、昭和11年に設立した中島徳松氏・経営の中島鉱業株式会社の名で呼ぶ人も多いかと思います。
中島鉱業の沿革について述べると、やたらと複雑になるので大半は割愛しますが、江口鉱は「中島江口」「大成」「中島志佐」の3鉱を統合したものを「中島江口炭鉱」と称し、鉱業所本部を調川・江口に置きました。

昭和33年1月中興鉱業は中島鉱業時代に欠食児童を出し、学校やPTAにお世話になったとして調川小・中に対し放送機器・ラジオ・スピーカーを寄付しています。そして2月には中島鉱業を吸収合併し、中興鉱業と改称しました。順風満帆の船出か、という時に大事故はおきました・・・・

(かつての鉱業所事務所跡付近と調川の町並み)

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『 「水だっ、水が出た」-昭和33年5月7日夜。江口鉱の坑道から1820mの場所で突然の出水、坑内にいた二番方38人のうち奥の29人が水中に取り残された。

坑内に排水設備はなく、130馬力のポンプ6台で懸命の排水作業が行われたが、水量が多く救出は難航。同27日には排水作業中に落盤が発生し、2人が犠牲となった。

最初の遺体発見は7月17日。事故発生から実に72日目だった。遺体は折り重なるように倒れ、炭泥に埋まって鑞化(ろうか)、事故の凄惨さを物語っていた。
息苦しい、元気でさようなら」「二人仲良く、よろしくタノム」などツルハシでヘルメットやスコップに彫りつけた数人の遺言が見つかり、多くの人の涙を誘った。』(長崎新聞社刊ニュース50年史より抜粋)

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絶望的な漆黒の闇の中で、妻や子どもに宛てた遺言です。・・・言葉がありませんね。


事故から2日後、5月9日の江口坑坑口。心配そうに中を覗き込む少女の心中はいかなるものだったでしょうか・・・。

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遭難者の慰霊碑は、調川保育所の敷地内にあります・・・

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子どもたちの賑やかな声が聞こえていました。
碑は、一般の人がすぐに行ける所にはありませんが、「子どもたちを案じながら」亡くなられた鉱員さんたちにとっては、子どもたちが毎日元気に活動している保育所の中にあるということで、ずいぶんと慰められるのではないでしょうか・・・。

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松浦市商工観光課発行「炭鉱史」より

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さて、その「炭鉱史」によると、「中島鉱業本部」の項に・・『同鉱本部は北松浦郡調川町に在り、松浦線調川駅にて下車、南徒歩約20分、近辺は遠く玄界灘をのぞみ、また松浦絶景の1つともいわれる七つ島を望みて風光明媚、魚類豊富の楽しいヤマである』とあります。

写真は昭和30年代、賑わっている頃の調川の町並みです。大きな炭鉱住宅が何棟も並んでいるのがわかります。

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中央に見える薬局だけがほとんど変わらない姿で残っていました。なんかうれしいですね。

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炭坑時代、家族の急病等により、お世話になった人も多いことでしょう。
また昭和34年の7月には江口で赤痢が発生していますので、この薬局さんも当時のことは覚えておられることでしょう・・・

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その薬局さんの向かいにある鉱業記念碑です。

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炭鉱住宅も幾つかは残っているようです。

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ここは2軒長屋のようです。ちょうど堺にお風呂があるという造りですね。かつてのご家族の楽しい様子が浮かびます・・・

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奥の黄色い看板が薬屋さんです。この辺りはまだ当時の面影を残しているようですね。

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かつての降炭道路。その面影はまったくありません。

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鉄道積み込みも行われていたという調川駅です。こちらもその当時を想像することは難しい状況となってしまっています。

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住宅の近くにあった「中興」と書かれたゴミ置き場です。

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炭住町のすぐ横を流れる調川川です。澄んだ流れでした。

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町にひと気は無く、町中であるというのにウグイスの鳴き声がやけに響いていました。
しかし、子どもがいればこそ、またいつか賑わいを取り戻すこともあるでしょう。
そして遭難者たちの子に託した思いが今後もこの地を支え続けるのでしょう・・・・。

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(記事作成:2011年7月)

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