平成26年に閉店した長崎玉屋は、派手さはないが地元に愛されたあたたかな百貨店
平成26年2月末で長崎玉屋(正式には、佐世保玉屋長崎店)は昭和44年の開業以来、約45年の歴史に幕を降ろしました。
画像は最終日の長崎玉屋の姿です。ただ外観を見ただけでは、「老朽化が否めない地方百貨店」と映るかもしれませんが、この長崎玉屋の「在り方」はいろんな意味で、今後の大規模商業施設にとって手本とすべき、或いは多くの教示を与えうるエッセンスがあるように思われます。そのことを確信させる光景が、この最終日に幾つも垣間見えました。
最終日、店内には多くのお客が詰め掛け、たいそうな混雑振りでした。最初それは、最大7割~8割引という閉店セールによるものかと思いましたが、様子をうかがっているとどうもそれだけではないことが判ってきました。
老若男女を問わず多くの方が、明らかに店員さんに労いの言葉をかけたり、店の様子を名残り惜しそうに眺めているといった様子があちこちで見られました。
他の百貨店が集中する繁華街とは離れた新大工町商店街に、ただひとつの百貨店として、言わば独特な立ち位置で営業をしていた長崎玉屋。この地を撤退するという感じではなく、「地区の為に本当に今日までお疲れ様でした」、とでもいうような空気感に包まれていました。
現在の新大工商店街は、若い人の姿こそ目立ちませんが、寂れたという感じではなく、年配のお客さんの往来は常に絶えません。
その新大工商店街の一役を担っていたのが長崎玉屋でした。今の大型商業施設にはあり得ない発想かもしれませんが、玉屋ビルの商店街に面した一階は「新大工市場」となっています。
ですから、内部は実際に鮮魚店や豆腐屋さん、青果店などがびっしりと詰まった市場となっています。
商店街側のデパート・フロア出入口は、こんなにも慎ましいものでしたが、こちらの出入り口の方に馴染みのあった方も随分と多いことでしょう。
電車通り側が正面玄関となっていますが、ここもメイン・ゲートでありながら、客を風雨からまもる為に、付近はガラス板で囲われています。ガラスの内側にはベンチがあります。
この正面玄関をくぐっても、あるのはブランド化粧品ではなく、ご覧の通り食料品売り場となっています。
そして何より便利だったのが、路面電車「新大工町」停留所から歩道橋で直接2階につながる、この「ローズ・ゲート」。この通路は電車を降りた後、商店街側へ抜けるのに、私個人も何度も利用させてもらいました。もちろん買い物もせずにです。
雨の日などは、特に助かりました。
このゲートは、ただ通行させるだけでなく、ベンチが置いてあって、よく年配のお客さんなどが休むのに便利な場所となっていました。
店舗に入ってすぐの場所にもベンチがあります。夏場の暑い盛りには、体を休めるのによく利用をしたという声も聞きます。
階段の踊り場にもベンチがあります。今の商業施設にはこういうものは意外にありません。
ここはソファです。
また階段自体も段差が低く、幅も広く、そして照明も明るくなっています。こういう点も最近の施設のものとは大きく異なっています。
こういう「血の通った設計」という点では、軍艦島の中にあった高層アパートの階段を思い出しました。
閉店ということで、ミニ写真展をされていましたので、折角ですから何枚かご紹介させてもらいたいと思います。
これはおそらく昭和44年のオープンに並ぶお客さんの姿だと思います。それにしても、付近の建物や走っている車が違いますね。
昔よく目にしたアドバルーン。ざっと数えただけでも8個も揚がっています。
商標を取り付けているところですね。
まさに「白亜の社屋」といった感じです。手前には懐かしい電鉄バスと160形の路面電車(旧西鉄電車)が見えています。
エントランスにあったサインでしょうか。
オープンの日の別アングルでしょうか。手前には長工醤油の大きな建物があります。
多くの方が日傘をさしているということは、夏の日のオープンだったのでしょう。
エレベーター・ガールのように見えますが、数が多いですね。制服だったのでしょうか?
2014年2月末での閉店が報じられた後の1月頃、玉屋では閉店セールだけではなく、子ども向けのウルトラマン・アートスタジオ展を開催していました。思えば、幼い頃、よく玉屋で開催されていた「生きたアマゾン展」やヒーローもののショーなどを見に行ったものでした。
おそらく採算は度外視して、最後のイベントとして「子どものためになるもの」という選択をされたのではないでしょうか。
ここは屋上遊具広場です。以前はコインで動く乗り物などもありましたが、最後の方は幼児や子どものための無料の遊び場を提供しています。
お金もかからないし、雨天でも遊ぶことの出来る広い場所というのは、そうそう見つかるものではなく、親にとっては大変有難いものです。
(ちなみに、最終日を含め、この頃の店内には、50年代にヒットしたスウェーデンの音楽グループ、アバのナンバーがずっと流されていました。 この時、がらんとした階段室に流れていたのは「Thank you for the music」。妙にこのメロディが心に染みわたりました・・・。
6階にあったファミリー・レストラン。
昔のスタイルのままのレストランでした。入口で食券を買って座っていると、店員さんがポットに入ったお茶を持ってきてくれます。食後にはコーヒーも一杯、無料で飲むことができます。
自分が幼い頃は、このようなお子様ランチを食べることがとても楽しみでした。
レストランの前あたりは、以前「ローズ・ギャラリー」と呼ばれた展示スペースがあり、一度だけ展覧会をさせてもらったことがありました。私が全くの無名の作家であるのにもかかわらず、かなり大きな表題プレートを作成していただきました。
その時は開店前に通用門から従業員専用のエレベーターで会場に昇り、準備をしました。始業前の従業員向けの放送を聞いて、自分も気合を入れていたことを懐かしく思い出します。
その6階会場からは正面に伊良林の山がよく見えていました。麓に見える赤い鳥居は、若宮神社のものです。
会期中、お弁当を食べたのが屋上広場でした。
屋上には祐徳稲荷神社もあり、ゆっくりとくつろげるスペースとなっていました。
屋上8階には、小さなペット・ショップがありました。この犬たちは2013年暮れ頃に撮影した、店のご主人の飼い犬なのですが、まだその頃の2007年にはフェレットや小鳥、金魚などの小動物が売られていました。しかし、ここまで来るお客の姿は殆ど無く、かなりさみしい状況に私には映りました。
しかも、その後4~5階が事務所となってその階の階段も閉鎖された為、このペット・ショップへ行くには、エレベーターを使うしかないという過酷な状況となってしまいました。この状況に心を痛めていた客は、おそらく私だけではないと思いますが。
最終日にもっとも行きたかったのは、この小さなペット・ショップであったのは、言うまでもありません。
復活した階段を上って行ってみると、やはり思いは皆同じなのか、多くの人が狭い店内に溢れて買い物をしていました。私も猫の餌をひと袋買いました。
お店のコーギーくんは何も知らないのか、いつものように屋上広場で昼寝をしていました。
もうお店は続けないと言われていた店主さん。沢山の方の応対におわれていました。コーギー君は、明日もまたいつものようにここに来るのだと思っているのでしょう。
「なつかしい長崎」にまたひとつ別れを告げることになります。
多くの場所で締め出しをくい、商いの場を失った露天商の方々もまだここでは健在である新大工商店街。
その中で多くの方に親しまれた長崎玉屋は惜しまれつつ静かに幕を下ろしました。
今の時代のスタイルとは離されてしまったのかもしれませんが、この長崎玉屋の在り方は、「お客の心に届く、幾つもの大事なエッセンス」を最終日に再確認させてくれたような気がします。
最終日に華を添えるために、玉屋に入ってゆく長崎女子高等学校の龍踊り(じゃおどり)部の高校生達。すれ違うと、皆いい顔をしていました。「頑張って」と声をかけると、明るい笑顔で応えてくれました。この生徒達も、この百貨店のことはずっと覚えておいて欲しいものです・・・・。
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