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自動的に精神の健康を得続けられる方法

それは結論から言うと「自分の部屋を整えること」である。

自室とは即ち、仕事が終わったクタクタの身体で辿り着く場所。外に出かけて、得てきたものらを整理する場所。不登校やひきこもりであれば、生活の大半を占める場所。パーソナルスペース、コンフォートゾーンの最たる空間である。

意識に対して「無意識」
覚醒に対して「睡眠」
朝に対して「夜」

それらは私たちの生活を影から支える"縁の下の力持ち"であり
鮮やかな花を支えるには欠かせない、大事な茎の部分とも言える。
そんなに重要な空間なので「自室」の質さえ一旦上げてしまえば
あとは勝手に生活全体がより良くなっていく。根を整えれば花まで整う。
睡眠の質を上げれば全てのパフォーマンスが上がる現象にも共通している。

いざ自室を整えるに際して、まず重要なことは「掃除」になってくる。
ゴミやホコリで溢れていれば景観が悪いのは当然として、そこに何かを新しく飾ることも出来ず、知らぬ間に吸引するホコリや悪性の菌類が身体に負担を掛け、本人が意識しない間にも精神的な不快感の原因となってしまう。

ゴミ以外の物で過剰に溢れている状態もあまり良くない。単純に部屋の中が狭くなるし、気分的にごちゃごちゃしてきて、物を捨てられないのと同じくらい、日常の内で生じた不必要な悲観や雑念に固執するようになってくる。それに、アイデアとはきちんと整理整頓のされた清浄な空間に降りてくるとも言われている。

また、人間には意識と無意識というそれぞれ二種類の心の働きが存在しているが、時に無意識とは意識さえ超えて強力に作用するもので、たとえば私たちが日々の生活の内で見聞きしてはいたが「記憶」からは完全に忘れてしまっていたようなことが、無意識の司る「記録」の領域では厳正な文字で記されている。すっかり忘却していたことが、数日経った後に何かの拍子でふと鮮明に思い出されたりする現象もそうした構造が関係しているし、更には意識して視てはいなかったはずの"視界の端っこの風景"まできっちりと脳に刻まれており、それで唐突に「架空の風景画を描いてください」と頼まれた時などに、私たちの無意識の領域から湧き上がってきた"記録"が表出してくる。見た覚えが無い景色でありながら、描いている本人としてもどこかしっくり来るわけだ。

こうした意味でも、全ての経験がその人の表現の幅を広げることに貢献しており、失敗や後悔までを含め、完全に無駄な体験などほとんど無いと言えるだろう。無意識は意識よりも有能だ。

少し話が逸れてしまったが、上記した事柄からも我々が常日頃目にする自室の光景とはかなり重要になってくるもので、ゴミやホコリで精神の健康度が低下してしまう一方で、一度綺麗に整えてしまいさえすれば今度は恒常的に精神の健康が向上し続ける。なにせ自室とは、朝起きた瞬間から目にする光景なのだから…。

好きな家具を飾ろう。納得できるデザインに近づけよう。
長期的に自身の無意識に関与し続ける点を踏まえれば、少し値が張るとしても本当に好きなデザインの家具を選ぶことには価値がある。更に、体に良い材質や、使い勝手の良さに拘ることも良いし、空いた空間に自分が好きな絵や造形を飾ることもまた、全体の幸福度に貢献してくれる筈だ。

実は「嗅覚」の面からも部屋をデザインすることが出来る。
アロマ、キャンドル、お香、匂い袋、サシェなどこの世には様々な香りを彩る道具が存在しているので、それらを活用して部屋に嗅覚的な安心感、清涼感を齎してみよう。ただし、あまりに安価なものは人体に有害性のある粗悪な材料が使われている場合が多いため注意したい。あとは強い香りが重なり合い過ぎた結果、むしろ不快な香りと成り果ててしまわないように気を付ける必要があるが、そこは自分にとって心地良いと思える"感覚"に従って準備を進めて行けばきっと大丈夫だろう。

残念ながら部屋の家具を買い足すような余裕が全くないという私と同じひきこもり無職の同志であっても、部屋の掃除をした後に空気をなるべく綺麗に彩るくらいは出来るので、是非試してみて欲しい。この確実で物理的な改革によって精神が改善する見込みがあるし、適度な運動にもなるし、単純に部屋も綺麗になって良いことずくめだ。(鬱文章を書くにしてもなるべく頭が回っていた方がキレが出てくる。より美しく病めてお得。)

部屋から服へ

自己が望むように部屋を整えることで「思い通りに自分を表現する」ことに対する根本的な自信が付いてくる。その根本的な自信によって、根に水分を得た植物が枝葉を伸ばして育ち始める。つまり、自分だけの意見を持てるようになったり、自分だけの目標を持てるようになったり、果てには自分が本当に着たい服を自由に着られるようになってきて、"服装"の方まで整ってくる…という不思議な世界が開けてくる。

服装とは最低限に人の身を守る防具であると同時に「デザインを身にまとう」という儀式的な側面を持ち合わせている。もちろん派手さを追求することも、素朴で落ち着いた雰囲気を追及することもどちらも自由自在なもので、人それぞれの服装や雰囲気があってこそ街の景観も喜ぶことだろう。

また、心理的な作用として、人は着ている服に近づいていくという面白い側面がある。これはどういうことかと言うと、たとえば囚人服を着せられている人は自分の姿が目に映る度にだんだんと自信が無くなっていくし、抑圧的な思考になっていく。鏡で全身を眺めたりすれば尚更のことだろう。反対に、役職ある立場を連想させるような立派な服を着ていると、それだけで本当に仕事が出来るようになってしまう。少し複雑な話だが、私たちは服を着る時に「その服を着ているという意識」も同時に着ており、故に場合によっては裸の王様にもなれてしまう。

現代の日本では圧倒的に"洋服"を着ている人が多い。中高年が下品な英語の書かれたピチピチのTシャツを着ていたり、若者たちが揃いも揃って囚人の如くチェック柄とジーンズを着ていたり、凡俗なファッション誌をそのままコピペしていたり、もはや組み合わせの吟味を放棄してのことか、全身黒一色で街を出歩いていたりする。これについて私は「彼らは抑圧されているのではないか?」と直感的に感じることがある。抑圧とはつまり、ファッション業界による同調圧力や、自分はこの程度だという自棄や、マスコミが喧伝する大衆像に目を塞がれて、本当に自分が着たい服を着られていないのではないか?という意味だ。

ちなみに、現代日本のあまり見栄えしない中年男性や所謂陰キャ・アキバ系男子に着物を着せてみると、途端に風格が出て格好良くなったりする。それもそのはず、各地の民族にはそれぞれの体型や顔立ち、所作、空気感に適した、最も身に馴染む衣が長い歴史を経て編み出されているもので、それが「伝統的な服装」として伝わってきている。つまり伝統衣装とその地に住まう人間とは"遺伝子レベルの絆で結ばれた相棒"なのである。

それで和の民に和装をさせれば、魚が水に帰ったように急に艶が出るのは至極当然の道理であるし、革命かと錯覚させるほど効果の高い、ただただ純然たる原点回帰である。一方で、無理に洋装をして不格好になっている様には悲哀が漂っていてどうも切ない…。

とはいえ重要なのは「自分が着たい服を着ること」これに尽きると思う。
この姿かたちで生きられるのはたった一度きりの人生なので、世間の風潮に囚われずに自分が一番しっくり来る服を着た方が良い。というか、風潮に囚われている内は本当の意味でのオシャレなんてあり得ないと思っている。世間の風潮に順じて自己表現を決定するならば、強制的に皆で同じ学生服を着せられていた少年時代から実質的に何も成長していないのと同じだろう。

あまりに人目に晒す勇気が無い類のものは、部屋の中でだけ着用して過ごしてみるのもまた一興だろう。それは徐々に人格と同化してくるが故に、侮れない。

「部屋から服へ」と自己表現の至りを述べてきたが、その次も「服から人格へ」「人格から人生へ」…という風に、更なる派生を遂げていく可能性に満ちた分野だ。また、人によってその順序は様々かも知れないが、どれか一つ自分なりの表現を整えてみることで、自分だけの人生が開けてくる希望がある。

おわりに

今回は「自分の部屋を整えること」が精神の健康に利してくれる構造についてご紹介させていただいた。それは主に現代の若い子たちに欠乏がちな「自己表現」の回復にも繋がり得る希望の一手であり、様々な連鎖的な改善を見込むことが出来そうだ。

自分好みに部屋をデザインすれば、自動的に幸福が続く。
自分好みの服装を着こなしても、自動的に幸福が続く。
自分に人生に、謂わば幸福の自動発生装置を設置するようなものであり
非常にお得な方法だと思っている。

精神論とは違い、「部屋を整えること」は確実で物理的な方法なので、今まで気に掛けたことが無かったという人は是非一度試してみて欲しい。

真なる自己とは、間違っても巷のマスメディアの報道や広告の中には存在していない。ネットの流行とやらも、源を辿ればだいたいはスポンサーや営利団体が涎を垂らして待ち構えている。搾取の為に用意された幻影ばかりだ。

自分の頭で考えて、自分の心でデザインして、自分の人生を生きていこう。
この抑圧の時代に奪われた自己表現も、一つずつ取り戻して行けば良い。


このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)