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人生から「超正常刺激」を引くだけで全てが上手く行くかも知れない

「散歩をしただけで予想以上に体調が良くなった」

この手の体験談はひきこもり界隈でも非常によく聞く話であり、適度な運動、新鮮な外気の呼吸、自然な明度で過ごすなど、様々な効用の相乗効果によってこのように大きな効用が齎されているであろうことが推察されます。

その一つとして「超正常刺激からの強制離脱」という要素も実はかなり大きな役割を果たしているのではないかと思い至ったので、今回はそれについて簡単にお話ししてみようと思います。

私たちは刺激の強い人工的な情報の嵐に日々晒されていますが、学術的にはこれを「超正常刺激」と呼ぶそうです。

動物を用いた実験では、「超正常刺激」を与え続けることで、本来はその種が食べない筈のものを食べさせたり、子育てを放棄させるなどといった、生物的にあり得ない行動を取ってしまうといった事例が示されています。このことから、「超正常刺激」の持つドラッグ染みた刺激の強さによって、生物の脳を狂わせ、本能さえも忘却させられることが可能だとわかります。

たとえば、オスの尾がすごく長い鳥がいるとする。この鳥では、尾の長さがメスにとっての魅力になっていて、繁殖期にメスを惹きつける。そこで研究者がこの鳥のオスを捕まえて、現実にあり得ないほど長い人工的な尾を貼り付けてもとの場所に放した。するとこのオスはメスにモテモテになってしまった。不自然であっても、より長い尾がメスにとっていっそう魅力的に見えたのである。
 こんな風に、現実にあり得ない刺激によってより強い反応が引き起こされることがある。この刺激を超正常刺激(supernormal stimulus)という。これは、最大の心理的効果を引き出す刺激は、現実にありうる状態を超えて設定される場合があることを意味している。

https://www.tokaigakuen-u.ac.jp/academics/news/detail.html?id=314

一方で、散歩(特に自然の中を歩く場合)では「超正常刺激」の圏外となり、よほど「外で散歩をしている時でもスマホでネットを見続ける」などの重篤な中毒症状でもなければ、それらの世界とは一時的に区切りをつけて、自然な明度、色合い、音、空気、感情に触れ続けることになります。私の場合、そうした時間にインターネット空間に溢れる娯楽や世を飛び交うニュースのことを考えると、実際そうしたものに触れながら過ごしている時間とは打って変わって億劫な気分になります。つまり私もまた「超正常刺激」によって脳が不具合を起こしているだけであって、本当は極力それらに触れたくないのかも知れません。

これは電子情報に包囲されている現代っ子ほど"違和感"を覚える話かも知れませんが、自然の世界とは案外平坦です。野山を歩いていても物語染みたポジティブやネガティブもありません。激しい喜怒哀楽もありません。ただ静かに世界は佇んでいるのであり、様々な形をした植物や動物たちと並んで「私」という存在もまた、そこに静かに佇んでいるだけです。善悪や正誤などといった物語染みた概念も無く、ただせせらぐ川の音の如く主張の小さな、実在することの満足感、或いは恐怖感といったものが刻々と流れているだけです。小さな恐怖感とはもはや「情緒」の一種類として味わえるものだと私は思っています。

刺激の弱い空間の中で、私たちは様々な真実に気付くことが出来ます
「ゲームセンターの外に出てようやく、自分のスマホが鳴っていることに気づいた」こんな現象にも似ているかも知れません。

例えば、「お腹が空いた」「喉が渇いた」などといった自体内から発される日常的な信号でさえも、何らかの強烈な刺激に曝されている状況下では、私たちはなかなかそれに気付くことが出来ないものです。

その一方で人間は、体内から直接的に、或いは見聞きする外界の情報から間接的に連想されて、日々様々な信号を受け取っているものです。ついでに言うとこれは科学的ではなく、スピリチュアル寄りの現象でもあります。使用可能なエネルギーが減っていること、つまりお腹が減っていることを認める際に何らかのデータ資料を拵えるわけわけでもなく、「何となくそう感じるから」「そんな気がするから」で判断していますからね。必要な水分量についても同様です。もしかしたら遠い未来では「お腹が減った」と主張するにしても根拠となる体内データの提示が要され、そこから算出された量だけが効率的に支給される世界が来るかも知れません。そうなった時はいよいよ「人間」も科学的な存在になり果てるかも知れませんが、とにかく古来からの人間本来の性質としては上記の如く"非科学的"な、或いは霊的な側面を持っているわけです。

目にした植物の色や形から連想して、体内の栄養状態の再確認を行ったり(そこで連想ゲーム的に浮かんできた食べ物がつまり枯渇している栄養素を補う決め手となったり)。これから渡ろうとしている橋の景色に見える、微妙な違和感や「何となく」によって橋の内部で起きている老朽化の予測や、その他の事故の可能性に気付くことなどもあります。
また、世の天才とされる起業家、芸術家の世界でも、情報の山にどっぷり浸っている時ではなく、刺激物から距離を置いて、ただぼんやりと散歩をしている時や、お茶を飲んでいる時などに物凄いアイデアを閃いたという事例が多いものです。このことから、「天才的なアイデアが降りてくる余地」としても、「超正常刺激」から離れて過ごす習慣は活きてくるように思われます。

このようにして、人間とは日々、内外問わず様々な5感情報、或いはそれ以上の信号を受け取った上で、自身にとって最適な選択を取り続けていると考えています。私は最近これを便宜上「サイン」などと頭の中で呼んだりしています。

記事もいよいよ終盤なので思い切ったことを言いますが、人間は設計段階から既に「自分が幸せになる方法」「健康に生き続けられる方法」「能力を開花させる方法」など地球上で生きるに於いてあらゆる有益な情報を知っており、それ故に内外に起きる様々な信号を道しるべとして、それを辿っていくだけでだいたいのことが上手くゆくようになっているのではないかと私は考えています。
思えば、人間以外の動物や植物はみんなそうではないでしょうか?
彼らには学校や社訓や経典などがあるわけでもなく、まるで初めから全て知っているかのように、または成長の過程で自身や身の回りに目を向けてひとつずつ「思い出してゆく」かのように、常にそれぞれの特性を持った生物としての輝きを見せています。

もしも人間が"過度に不自然な環境"に曝されてさえいなければ、あとは放っておいても勝手に各人が健康になり、能力を発揮し、それぞれの幸せに辿り着けるものだとすれば…。そんな本来は当然だったはずの本能的な帰結が「超正常刺激」によって阻害されているのだとすれば、それほど馬鹿馬鹿しいことはありません。

これらの内容を読まれてどこかピンと来た方は、「超正常刺激からの離脱」または「なるべく避ける」程度にでも意識してみて、新しい習慣を組むことをぜひ試されてみてください。

社会不適合者、ひきこもりの方へ

私のように社会不適合者だったりひきこもりの方は特に多そうですが、自分の人生に対して漠然とした違和感があったり、世界全体を呪うような気持ちがあったり、全てに対して「ふざけるな」という気持ちが湧き上がってきたり、厳密には死にたくないのに「死にたい」という言葉がつい口に出てしまう人は、本来は自然と幸せになる筈だった自己が「超正常刺激」など不自然な要因らによって阻まれ阻まれ、もはや遠のくところまで遠のいたそれが「早くこっちに戻ってこい!」と叫んでいる強烈なサインなのかも知れません。

ここでご安心いただきたいのが、私たち生命体には根本的に再生力、そして恒常性が備わっているということです。誤った道を歩んできたのであれば、ただ戻れば良いだけという単純なことなのです。

たとえどれだけあなたが自己否定に陥っていたとしても、地上とはどんな爪弾き者に対しても太陽のぬくもりが注がれ、旬の食べ物は旨く、季節の花々は香るものです。これは即ち、地球の側はあなたが生きることを肯定している証ではないでしょうか。(消滅を願われる存在が何故そんな恩恵を受けられる?)心臓の鼓動を始めとして、各臓器らも生まれてこの方あなたの為だけに働いてくれています。自己の存在価値とは競争で勝ち取る地位でもトロフィーでもなく、ただ気付けくだけで自己の内外に溢れているものです。

まずは本記事で触れた「超正常刺激」からなるべく離れ、自分自身が出来ること、やるべきことを"思い出す"ところから始めてみてはいかがでしょうか。過激な喜怒哀楽、善悪、ポジティブ、ネガティブなど超自然情報の濁流中であなたの本能が混乱していただけであって、冷静に見渡してみればこの世界の至るところに小さな希望が見えてくるかも知れませんよ。

このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)