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「頑張れ」が人を壊し、「休め」が人を壊す理由 ~忘れ去られた人間の道について~


はじめに

人間。それは皆が同じようなシルエットを持つ種族であり、異種族からすれば「全部同じに見える」くらいの差しか有しておりません。

それでも各個体らはたしかに違った人生を歩んでいて、十人十色の経験や考え方を持っているものです。

私のように"量産型"と言われるような冴えないネクラ男であれ、或いは死んだ目をしたサラリーマンの集団であれ、その体内には皆それぞれの好きな事、思い出がたくさん詰まっていることでしょう。あとは夢とか、守りたいものとか……。

ところが「生命体」という観点から見た場合、実は人間にはたったの一本しか道がないのではないか? 長きに渡るひきこもり生活の中で、私はそんな発想に至りました。突飛な話ではございますが、今回はそれについてお話してみようと思います。

ひきこもり生活に見る「理性」と「獣性」の限界

人間とは不思議なもので、あまりに気を張って何かに取り組み続けていれば辛くなってきますし、逆にあんまりゴロゴロし続けていても辛くなってきます。

「本能」の限界

私のように人生の"スケジュール"を喪失してしまったひきこもりは、代わりに得られた陳腐な「自由」の感覚の下、くびきの切れた風船のようにあちらこちらを飛び回り(主にネットの中を)、夕暮れ時には己の帰るべき場所もわからなくなっているのが恒例です。つまり、生活に指標が無いのです。

余程強靭な精神を持つ人間でもない限り、「予定表」を失った人生の中で健全で生きることは不可能なのではないかと思っております。

指標を失ったまま堕落を続けて、どんどん悪くなって行く人も多いものです。実際に私もそうで、あまりにも頭を使わないせいで脳の機能が部分的に凍結されてしまうこともありました。腹が減っては勢いで好きなだけ食らい、一日中寝たい分だけ寝て過ごす。そうして草木も寝静まった丑三つ時に、濁った眼をしてのそりと起き上がって来る。欲望から欲望を渡り歩く、陰鬱で終わりなきハシゴ酒。そんなまさに獣のような過ごし方をしていた時期もありました。

一切の予定が無い生活。一見してそれは「自由と幸福の謳歌」にも思われるかも知れませんが、恐らく人間という種族には根本的に合っていない行動習慣なのではないか? というのが体感されるところです。当時の私の心の中は毎日真っ黒けで、色々な不調と病気も増えて、定期的に死を覚悟する瞬間にも見舞われていたものですから……。

「理性」の限界

一方で、ひきこもりでもひょんなことから火が着いて、運動や勉強など、何事かに熱心に取り組み始めることもあります。「我天啓得たり、人生の秘訣は自制、努力、勤勉なり!!」

そうして没頭している内に、行き過ぎてしまって、なんと当たり前の食欲や睡眠欲さえもだんだんと分からなくなってきます。

仕舞いには食事という行為に掛かる手間も、寝る時間さえも惜しいような気がしてきて、「そもそもそんなのは要らない」という風に。お陰で神経は常時張り詰めっぱなし。ある日急に倒れるか、自覚可能な程の病気を患って大変な後悔をする羽目になります。お恥ずかしながら、これもまた私が通ってきた道です。

結局、「理性」が行き過ぎると自己崩壊が始まるということなのでしょう。生存能力を司る「本能」を蔑ろにした結果、頭でっかちになって足元を掬われてしまうと。進化生物学的に見ても、そもそも理性とは本能という母なる大地に芽吹いた一本の新しい木であり、理性ばかりを贔屓して本能の存在を根本否定することは、積み木の上の方に置かれたブロックが、下で支えてくれているブロックらに対して「全く、お前らみたいにダサい底辺は」と嘲るようなものなのでしょう。すると勿論、次の瞬間……。

どちらでもない「人間」

動物的本能のままに生きるのが人間かと言えば、当然違うでしょう。そんなことなら人間である必要はなく、野山を駆け回る獣さえ居れば十分ということになってしまいます。

では理性ばかりを過大視して生きるのが人間かと言えば、もちろんそうでもありません。それを至上の価値とするならば、究極的には人間ではなくAI・ロボットの方が適任であると考えられ、そこに人間の本分はなさそうです。

私が送ってきた「ひきこもり生活」を例に用いるならば、適度に日程を組んだり、ネットでフレンドを作って通話予定を取り付けたり、隅っこでも社会活動に参加したりして、人生の内に強制的な「理性」の時間を確保する。あとは読書やこうした文字発信をやるのも良さそうです。それから、土台である生存は何時いかなる時も母なる「本能」によって支えられていることを自覚し、頭ではなく心で考える時間もきちんと設けてみる。自分が持っている価値観も世界観も、抱えて込んできた真偽の疑わしい「知識」とやらも全てかなぐり捨てて、たまには思い切り体感を重視して散歩に励むなどしていれば良かったのでしょう。(そもそもが慢性的な運動不足だったというのもありました 笑)。

私は数々の失敗からこれらを頭ではなく体で学んできたことで、かつての生活がボロボロだった状態のひきこもりから、そこそこ物を考えたり、体が言うことを聞いてくれる「だいぶマシなひきこもり」へと成長することが出来ました。

ミニホロ9、飛び出す(余談)

「布団の中は暖かくて居心地が良いので、休みの日は朝からずっと布団の中で過ごしてみよう。そうすれば幸せになれるかも知れない!」

そう思い至って、実際にやってみたことがあります。

私がまだ小学生だった頃の話です。

実際にやってみると、7時、8時台はウトウトしていてまだ良いのですが、9時にもなると急に全身がムズムズするような感覚に襲われました。

もう20数年も前の話なのに、あの独特の厭な感じはハッキリと覚えています。体表の全部がムズムズするような、それでいて体の内側から何かが膨張してくるような、そんな恐ろしい感じです。宴会の席で、腹を空かせた酒飲みの太い指に圧を掛けられた枝豆の兄弟たちのように、居ても立っても居られなくなるのです。

そのうち私はスポンッと布団から飛び出して、寝巻きから着替えて外に出ました。すると先ほどまであったあの奇妙の全身の違和感は夢か幻だったかの如くすっかり消え去っているのです。

心身が発育途中の小さな頃から一日のリズムを崩してしまっては大問題なので、子供の体にはそういう"アラーム機能"のようなものが搭載されているのではないか? 今振り返ってみて、そんな風に疑っています。

その後も何度か試していますが、やっぱりどれも体がムズムズして耐え切れませんでした。何とも面白い体験でした。

人間の道

ここまで、「理性」「本能」どちらか一方にだけ染まることで人生が崩壊してしまう道理について、専門的な知識は持たないながらも、あの手この手を使って必死に示唆してきました。

すると結局、これらの話が指す「理想」とは以下の図のようになるのではないでしょうか。

ヒトの道は二元論の間にある。これぞ人"間"

人間はこの「人の道」にきちんと足をつき、二足歩行を出来ていることが肝腎なのであり、本能(図では獣性としました)に偏っては物事を考えず野蛮に陥り「人間であること」から遠退いてします。理性に偏っては地に足付かず悲劇にも「生きること」から遠退いてしまう。

どちらに偏っていても非常に辛いのは、そもそも足元に「道が無い」が為に。だからこそそういう時、がむしゃらに足を出す程に増々ぬかるんで、底なし沼に持っていかれてしまうのではないでしょうか。

「頑張れ」「休め」が人を壊す時

すると、理性の側に滑り落ちている人間に対しての「頑張れ」という言葉は理性の肥大を悪化させる破滅へのエールとなり、反対に本能の側に滑り落ちている人間に対しての「休め」は増々動物的本能を肥大させて、人間消失へのエールへとして図らずも作用してしまう、というのが私なりの危機感です。

(※ここでようやくタイトルを回収出来ました。とはいえこれらはちょっとした言葉遊びみたいなもので、近年猛威を振るう言語狩りに違った角度から加担してやろうなどといった意図は全くございません。どころか私は言葉狩りと正反対の思想です。)

そう考えてみた場合、「そんな状態は〇〇さんらしくない」「あの時の自分を思い出せ」と鼓舞する言葉こそが最も確実に働いてくれるのかも知れません。人の道に再び乗せてあげる為の修正力として。

思い返してみれば、たとえ今がどんなに滅茶苦茶な生活になってしまった人間であっても、人生のうちで二度や三度は日々の苦楽の中にも充実感を見出し、「人生が進んでいる」という確信を得ているもの。きっとそういう時期というのは理性一色でも本能一色でもない、その中央に浮かび上がる貴き薄灰色の「人間の道」をしかと踏みしめ、歩いていたのではないでしょうか。

獣でも機械でもない、この世に誕生した一人の「人間」として。

実は「直立二足歩行」の生物は地球上で人間だけ。

次なる人間

本能と理性の仲介者として地球に現れた、とも言える新種族「人間」ではありますが、ではこれら二元の中央地点に佇むことに満足し、進化を止めてしまったか? といえば決してそうではない筈。

本能の母なる大地に依拠し根を張って伸びる理性の大木。或いは、それを模写して聳えるあの冷たい鋼鉄とガラスのビル群。

数万年、或いは数千年先の人類は、「生命」という名の複雑極まりないエネルギーの物質的な再現度を上げる為に、新たなる「器官」の獲得に至ることでしょう。

その時、理性の上にまた一段階新しい「器官」が階層式に誕生する形を想像してみると、私にはどうもしっくり来ません。脳内に於ける物理的な距離という意味でも、また認知世界的な距離という意味でも、新出するであろう"第三の器官"は、開始地点である本能から遠退いて、密接な連関性を欠いてしまうからです。

上方に新たな器官が生まれると、「本能」とのリンクが距離的に遠退いてしまう。

かといって、現在の人間の持つ機能美のシルエットがある中で、側頭部からにゅるりと器官が飛び出していくという風にも考えづらい。

そこでX軸でもY軸でも無く"Z軸"方向に、図面的には本能と理性の中間地点に我々「人間」は位置したままで、より深く、より高次元を目指して往くのではないか? たとえば上下方向ではなく、器官の内側に「更なる器官」が生じるといった形式なのでは?

最近、そんな風な妄想をして、宇宙や生命といったものの底知れぬ神秘に酔い痴れているひきこもりなのでした。

おわりに

本記事は、浅学菲才のひきこもりが近ごろ頭の中で浮かび回っていた抽象思考をまとめたものに過ぎず、学術としての価値は恐らくありません。

それでも本人なりには経験から得られてきた体感的な気付きを精一杯詰め込んだつもりなので、自己啓発、スピリチュアルにあたる小噺として、読者の方にも幾らかお楽しみいただけておりますと幸いです。

自身もまだまだ道半ばの身ではありますが、人生に行き詰りを感じている人々が、一人でも多く「人の道」に回帰し、豊かで霊的な「人間」としての人生をめでたく再始動出来るよう願っております。

今回も拙文にお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。





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