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「自己肯定感」という究極の無形資産をどう得るべきか。某ひきこもりが思い付いた5つの方法。

はじめに

今日もまた個人的な趣味の一つであるスピリチュアル情報を求めて、ネットの海を漂っておりましたところ、YouTubeで登録していた神社チャンネル(芳賀ヒカル氏)のとある動画に辿り付きました。

記事を読まれている皆様にも見えているだろうと思われますが、すぐ上にURLを貼り付けさせていただいております↑

この動画では、自己をキャラクター(外的自己)アイデンティティ(内的自己)に大きく分けて語られており、このうちのキャラクターといった要素がじつは本人の人生にとって如何に空洞の虚像であるか、そして内的自己こそが如何に自己の生存を根本的に支えてくれるかということが説かれていました。

それで個人的に、自己肯定感の重要性といった側面が特に気になってきて、あれこれと思索している内にまた色々と胡散臭い自論が浮かんできましたので、今回note記事を投稿しようと思い立った次第です。

「自己肯定感」
この単語もまた、昨今の世では繁に見かけるようになってきたものですよね。

自己肯定感とは対象が自己→自己へと向いた観衆を問わない存在肯定ですから、タイトルで「究極の」などと凡俗な単語を付けてしまった通り、実際にかなり重大なものになってくると思っています。特に生活は便利になりながら大衆側のストレスや悲観が増えてしまった現代社会に於いては、"もはや生きるも死ぬも自己肯定感次第…"と言っても過言ではないかも知れません。

そしてよくネット動画や書籍などでも「自己肯定感を持ちなさい」や「自分を認めてあげましょう」といった言説が出回っているのを見ますが、実際のその方法については紹介されているものが今一つ有効打に欠けているなというのが私の率直な印象になります。そもそも自己肯定感が無い人には労力が大きかったり、問題の根深い部分に切り込むものではないように思えるからです。(その点、上で紹介させていただいた神社チャンネルではかなり参考になるところを突いてくれていると思うので、ご興味を持たれた方は是非ご覧になってみてください)

個人的な自己肯定感の獲得法

30代無職、資格・経験なし、収入・貯蓄共に無し、実家ひきこもり、これといった能力もなし、ひきこもり歴約10年…。このような邪道のオンパレードを取り揃えておきながらも、自殺などせずにまだしぶとく生きている私のような人間は、ある意味自己肯定感を見出す技術高い方と言えそうです

そこで、そんな私も現在まさに実践している自己流の「自己肯定感の獲得法」といったものをご紹介してみようと思います。

そもそもの話しですが、「自分を受け入れて、自己肯定感を持ちましょう」と言われたところで、そうした助言を受ける側は自分にとことん価値が無いと信じ込んでいる状況がほとんどなのですから、「おちょこの水を振りかけて、燃える家を消化しなさい」というような非現実的な切り口になってくるのではないかと思います。そして、恐らくはそれに連なるであろう何か特定の能力を上げなさいだとか、小さな成功体験を積み重ねなさいといった類の助言にしてみましても、人の能力などは年齢や環境次第でどのようにも変化してゆきますし、成功体験の積み重ねを続けてゆくのも継続的な努力の才能を問われますし、状況次第では出来なくなってしまいますし、なかなかに厳しいものだと存じます。

対する私なりの提案といいますと、「能力や立場ではなく、不変の事実に自己肯定感を見出しましょう」といったものになります。

自分には〇〇が出来るだとか、〇〇の能力があるといった方面の自己肯定感になると、やはりそれは主に外面的な「キャラクター」の領域にある自己肯定感であり、根っこからは自己の生存を支えてくれないように思われるのです。もっと言えば、一時凌ぎにはなったとしても、根源的な自己肯定感には繋がらないだろうと。

1.寵愛の気付き

例えば、もはや空間に刻まれているであろう寵愛の歴史です。幼いころに祖父や祖母に目に入れても痛くないといった勢いで沢山可愛がってもらえた場合。自分自身にとってもそれは確かな幸福の体験であり、そんなに自分を可愛がってくれた祖父や祖母は愛おしく、誇れる存在ではないでしょうか。自慢のおじいちゃん、おばあちゃんというものです。今はもう亡くなられてしまわれているにしても、かけがえのない彼らはその時間に私たちの命を心から祝ってくれていたでしょうし、その先も元気で生き続けてくれることを願ってくれていた筈です。これはよくよく見詰めてみると、いつまでも色褪せるのことのない事実であり、根深い自己肯定感にも繋がってくると思います。彼らの為にも自分は健康で長生きするべきだし、十分にその権利が備わっているのだと。相手が恋人や兄弟、親友やその他の親族であっても良いでしょう。

2.先祖への気付き

ここから少し派生して、対象を自らの「祖先」に移してみるのもまた良さそうです。人間というのは自分の子といえばやはり可愛いもので、我が子が生まれた瞬間に涙する父母は多いですし、あまり愛されているように思えない場合でも、どこかの瞬間では愛情の眼差しを向けてくれたり、我が子の為にと一心になって頑張ってくれているものです。これが孫になるともっと可愛い傾向にあるわけですが、もしも世代が離れるに連れてどんどん可愛く思えてくるとすればどうでしょう。誤ってご先祖様の時代までタイムトラベルしてしまった場合、あまりにも溺愛されて元の時代に帰してもらえなくなる恐れがあります。…実際はどうなのかはわかりませんが、私たちの日常規模の価値観で考えてみましても、遠い未来まで自分の子孫が続いてゆき、チラホラと自分そっくりの気質だとか、形質が表れているとすればやはり嬉しいですし、自然に愛おしいものなのではないでしょうか。元気で長生きして欲しいと願うはずです。私たちが遠い未来の子孫(或いは生まれ変わりでも良いですが)を慈しみ、祝う気持ちと同様に、私たちのご先祖様たちだって同じように私たちの存在に思いを馳せていたでしょうし、或いは霊体となって今でも見守ってくれているかも知れません。直接の家族や親族たちとは水と油の関係だったとしても、いずれかのご先祖様は自分と見た目から性格までそっくりの方がいらっしゃって、ずっと自分の味方で居てくれる。そんなことだってあるのではないでしょうか。

私たちの体に表れてくる様々な形質や、心から生じてくる「どうしてもこれをやりたい、やるべき」といった熱い気持ちなどは、かつて先代が持っていた様々な形質が入り混じって届けられたものですし、精神的な方でも先代の悲願を継承したものだと考えることが出来ますので、そうしたところからも「自分と祖先の繋がり」といったものを感じてみることは、キャラクターといった外面に関わらず、自己の深い領域を満たしてくれることだろうと思われます。

3.国の気付き

3つ目は、国や文化による方法です。現代では様々な問題点を抱えているこの日本という国でも、悠久に続く文化や伝統の側面で見れば物凄いもので溢れ返っています。日々の仕事や学業から脱し、日本各地を純粋な観光目的で行脚すれば、遥々と継承されて現代にまで届く数々の職人芸や、この地に根付く神聖な空気、そして独特の自然といったものに驚愕することも多いのではないでしょうか。腐っても世界最古の国というわけで、日本人は「文化に自己肯定感を持てる」という意味ではかなり恵まれていると思います。戦火によって焼き払われてしまったものも多いでしょうけれど、辛うじて残った物だけを見ていても本当に芸術的な価値が高いのがわかったり、遺物を通じて彼らの意思の強さ、豊かな精神性、更には"粋"といったものを感じられて、確かにその子孫であり、土地、精神と共にその魂を受け継いできた存在としての自己肯定感を感じられる筈です。ちなみにですが、日本以外の外国人はほぼ全員と言って良いほど自国に対する強い愛情や誇りを持って生きています。日本もかつてはそうだったと聞きますが、それもまた今日に至るまでの様々な悲劇によって削り取られてしまったのでしょう。海外諸国のように「自国文化への誇り」といった角度からの自己肯定感をスッカリ喪失してしまっていることも、現代日本人のメンタルのブレやすさ、打たれ弱さの病理になっていると思います。他の国の人々が当たり前に所有している"柱"が一本欠けている状態なので、ちょっと強風でも吹けば崩壊してしまうのもある意味当然だとも言えます。

4.存在性の気付き

4つ目はかなり大規模になります。大規模ではありますが、至ってシンプルなものです。それはつまり「自己が存在している」ことへの自己肯定感です。どういうことかと言いますと、特にこのようなnote記事を読んでくださっているあなたには「精神」というものが確かに存在しています。自己があり、意識があり、世界を見る、感じるといった能力を有していることは、ちょっと広い規模で見れば奇跡的なことだと気づいてきます。少なくとも現状の科学に依ると、単純な無機物は意識を持ち得ません。有機物よりも無機物の方が圧倒的に多いこの宇宙に於いて、「精神」といった形の無いものを獲得して今日この日に存在出来ているわけです。そのお陰で、世界を見たり感じたり、それらの光景について考えたりすることが出来る。これは冷静に考えてみるととんでもなく恵まれたものです。当然ながらあなたにはあなたの人生でしか味わえないあの景色、あの経験、あの感じで溢れているのであり、唯一性という意味でも価値があると言えます。そこはまたややこしい話になるので割愛するとして、とにかく意識、自己があるものとしてこの世に誕生したこと。これは例え悠久の時の流れの中で肉体が消滅してしまったとしても、宇宙史の事実として空間に刻まれることになると思います。

物質界でありながら精神を有するに至った私たちの奇跡への驚愕と、自己肯定。これを信仰のように深めてゆくことで、自然と他人のことも大切にして、あらゆる事象に意義を見出せる…といった風に、波及的な効果が見込めるのではないかと思われます。

5.人体への気付き

そして5つ目、最後の方法です。それは「人体の価値」を切り口とした自己肯定感を持つやり方になります。

個人的な話をすると、元々私は人間という存在に対してかなり悲観的な捉え方をしておりました。放っておけば人類の進歩などと上っ面の看板だけは綺麗なものを掲げ、実際は科学を暴走させて環境を壊し、生物としても不自然な生き方を促進しているし、また、実社会やネットを通して観測される人間の在り方につきましても、全般的にどれも醜い気がしていたのです。
 ところがある時、自分が所持しているあらゆる価値観や世界観といったものが、そもそもメディア媒体や政治、その息がかかった知識人などから様々な方便によって植え付けられているものに過ぎないことを危惧し(自覚が無いだけで、所謂洗脳状態かも知れないと)、それらを一旦全て放棄して、人為的な悪意の混入する余地が無い自然の光景、自然の原理などを軸に価値観、世界観の再編成を図ったのです。実際に修行僧の真似事のように、自然界の中に佇み、心を澄まして物の良し悪しや本質を見定めようと試みてきたものです。そんなことを続けている内に、今度は打って変わって人間という存在に対しては信仰に近いほどの愛着を抱くに至りました。それによって、見方が如何に一面的だったかを思い知らされることにもなります。

それからというものの、私は人間といった存在により興味が湧きまして、解剖生理学的な観点から人体の諸機能についての知見を見聞きしたり、主にメディアには露出しない硬派の医師たちの著書を辿って、最初に挙げました通り「人体の価値」といったものをいよいよ自身でも体感するに至りました。深く専門的な知見、深い考察といったものはそもそも大衆メディアに不向きである都合上、基本的に表社会では一切取り扱われないという構造上の悲劇も同時に知ったものです。「何故人間という存在に価値があるか?」に関して、未だに実感をお持ちで無い場合は、哲学や心理学の観点ももちろん有効ですが、医学や生物学の観点からも是非試されてみてください。如何に人体の諸機能が巧妙細緻であり、地球上の他生物とは特出した性質を有し、作者不詳の芸術性に満ちているかを自覚されることによって、状況や立場を問わずこの「人体を持つ」という自体に根深い自己肯定感を得られる筈です。

例えば日常的な事項ですが、人間の体は鳥類などと比べてかなり重い方でありながら、二本足を使って器用にバランスを取って歩き、頭は常に天に向ける形になっている…という姿勢に関しましても、慣れさえ廃して観察してみれば非常に珍しく、美しいものです。赤ちゃんの四足歩行(這い這い)の形態から徐々に立ち上がってくる様まで併せて見れば、そこには無言のうちに披露される、人類進化の歴史の物語が秘められていることがわかります。

まとめ

以上、一人のひきこもりなりに自己肯定感を得る方法を、今回は5つの方向性から提案してみました。

いずれも本質は「自己肯定に足る価値に気付くこと」でありますから、何か物理的な習慣を続けるとか、コンテストで上位結果を出し続けるような頑張りに比べれば遥かに楽なものになりますし、そうでありながら自己存在の非常に根深い部分へと意識を向けた肯定ですから、一旦体得してしまえばいかなる社会的な立場、状況、能力によって揺らぐことも無いだろうと思われます。一度体得した後にも、そこに様々な知見が加わるに連れて更に深めることも出来てきますから、生涯に渡り強力な自己の支柱になってくれることが期待できるのです。

また、人間は他者に対しても自己を投影するという心理的な傾向を持つので、これらはいずれも「自然に他者の価値を感じる方法」「他人を大切にする方法」にもなり得るのではないかと思っています。自己と同様に他者もまた尊く、故に時には誇りを持って戦ったり、全力で身を守る必要も出てくるのだと思います。

私も嫌な出来事が立て続いて悲観的な気持ちが強くなったり、自分の存在価値について自信が無くなることがしょっちゅうあります。しかもそれがあんまり時期が長くなると、己の視界には何処にも支柱が見当たらなくなることが多いです。そんな時は敢えて日常的な視界から離れて、これらの気付きを実践して立て直すことに努めています(方法論はわかりましたが、まだ完全には体得出来ていません)。

私と同じように自己肯定の支柱が見付からず、心が折れそうになってしまう同志たちが居れば、良ければこれらの観点からも試してみてください。

おわりに

究極的には、私たちはいずれも「この世に生まれてきた」という強固な事実に裏付けされた存在であり、故に万人が胸を張って生きて良いのだと思います。

私は時に、コンクリートを突き破って群生する植物たちの姿を目撃し、「生命力の真髄とは、即ち狂気なのではないか?」などと思うことがあります。生きることとは、一つ一つの理屈や意味さえ霞むほどに、もっと根深い部分での燃え盛る熱意が重要なのかも知れません。

地球上の生物中でも特に複雑で珍しい機能を有する「人間」に生まれてこられたこの幸運を祝い、寝ている間にも絶えず脈動する心臓と同様に、読者の方が温かな"狂気"と共にこの先も生きてくれることを願っています。

相変わらずな記事になりましたが……。
今回もお付き合いいただき誠にありがとうございました。


● 今回は記事の最後にamazonの商品リンクを貼るといった初の試みをしてみました。書籍の場合、もしリンクを介してご購入いただけた場合おおよそ100円につき3円の収益が入ってくるシステムのようです。私のnoteは収益狙いで運営しているわけではありませんし、狙うにしてもあまりに少額です。何よりも、好きな本を見栄え良く紹介できることに惹かれて今回採用してみました。リンクを介さなければ収益は入らない筈なので、システムが気に入らないという方は本の名前だけ憶えてリンク外から購入していただいて構いませんし、読者の方にはあくまでも新しい本の存在を知る機会として提供出来ればと思います。今回ご紹介させていただく三木成夫先生の「胎児の世界」については、解剖学の観点から命の神秘、生きることの重さ、人間の価値など人生観にまで突入する深掘りが為される名著です。図書館で無料で読める地域も多いと思うので、良ければ探してみてください。


このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)