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冷静、武力、反撃。人間の礼節としての「強さ」について


約30年間。その大半を「ひきこもり」として生きてきたような薄暗い心地の来歴ではありますが、曲がりなりにも生きて過ごした歳月をこれくらいに重ねてきますと、世の中の人の有り様について、自ずと体感を以てわかってくる部分が幾らかございます。

冷静編

例えば、世間の大人たちが日ごろ当たり前にやっている「落ち着いて振舞う」という所作に関しましても、普通は初対面の相手と何かしらやり取りをするような場合には、まだ相手方の性格や趣味嗜好もわかりませんし、出方も予測が付かないもので、「わからないので、怖くて仕方がない」というのが人間の本音ではないかと思われます。

私なんかは元々がひきこもり気質というのもあって、他人と関わる機会がある度に、人一倍ビクビクしていたものです。

ところが大方世間の皆様方といえば、重厚な漆塗りのテーブルに柔らかな絹のクロスでも敷いたかのように、根本の方ではドシンと構えておきながら、その上に柔らかな礼儀や気遣いなどをそっと添えて、朗らかに先方を持て成すことが常となっております。この一連が単に「ルール」であると言われればそれきりですが、実際はこの堂々たる振舞い、落ち着きといったものには、こちらが恥をかかないようにといった保身は勿論として、同時に相手方ぶ対しても余計に緊張をさせてしまわないように、不安がらせないようにといった内面的な気遣いも幾らか含まれている気がして参りました。

私自身、ひきこもりなりにもネットを通して主に他のひきこもりの方々と関わらせていただく機会がございますので、そんな際にも初めの頃はただ一心に緊張し、音声ならば露骨に上ずっていたような状況でしたが、だんだんと「相手側の緊張・不安を緩和させる為にも、まずはこちらが落ち着かなくてならない」といった感覚になってきまして、今となってはそんな強がりもだいぶ板に付いてきました。

不安も緊張もありながら、相手方を持て成す為にも強がらなければならない。人間社会の大人たちにはきっとこのようなことがあるのでしょう。プロのカウンセラーや講師といった職業も、自信に満ちているからこそ客側も安心して利用できるといった側面が大いにありそうです。私もこの、謂わば「礼節としての強さ」という考えに至ってからというものの、初対面から滞りなく会話が回る割合がいくらか増えたように体感されております。

武力編

次はもうちょっと不思議な話ですが、「武力を携える」といったことに関しましても先の例と同様に、実は相手方への、更には周囲の人々へ向けた気遣い・礼節といった側面があるように感じられてきた次第です。

幾ら栄えある知的生命体、人間といえども、原始的な段階の生物から発展してきた「本能」というものを、「理性」まで届くようにと入念に築いてきた誇り高き歴史の積み木として、不可分に有しております。低次の生物と人間の決定的な違いといえば「神経細胞」。つまり、人間は単純生物のように受けた刺激への「反射」を起こし続けるのではなく、その途中に「一時停止」「判断」「行動の採用」「行動の不採用」といった取捨選択が行えるといった奇跡の回路を獲得するに至っており、特に人間という種はその回路が爆発的に発達しているため、その結果として今日の繁栄があると存じます。

とはいえ、「弱い獲物がいれば捕ってやろう」というのが本能として原始的な部分に含まれている筈なので、弱い姿をあまり開けっ広げにするのは相手の欲望を刺激する行為になってしまいかねません。幾らその気が無いにしても、財布から札束を覗かせてそこら辺に放置でもしていると、僅かずつでも周囲の人々を「こっそり持って帰ってしまおうか…」という気持ちに寄せてしまうことが想像されます。盗み癖があって、そういった気持ちを普段から抑えて頑張って生活している人にとってはある種拷問のようなものかも知れません。もちろん、家屋なんかでも「自分はいつも、玄関に鍵を掛けずに出掛けている」なんて公言してみれば同じようなことになると想像がつきます。

ところがこれらについても「持ち出し厳禁」と札を掲げてみたり、わかる位置に監視カメラを設置したり、きちんと戸締りをすることで、適度な圧として周囲の理性を刺激し、正気に戻してあげられる効果があると考えられるわけです。たとえ自分にはその気は無くとも、他の人は違うかもしれない。理性の強度といったものは、集団ごと、人ごとに差があるといった現実問題を受け入れた上で、時にこういった策を決行することが、特に国境を越えて多彩な思想や価値観の入り乱れる現代では、回りまわって「他者の尊重」へと繋がると思うのです。

大雑把にこんな風な思考を辿って、「武力」というものもまた適度に示しておくことが、周囲の人々の欲望を軽減し、余計に苦しませてしまわない為の気遣いであり、礼儀であるといった感覚が自ずと湧き出て参りました。国際の場に於いても「戦争を起こさせない、抑止力としての武力」といったものが度々語られている光景を目にしますが、まさにこれは「礼節としての強さ」ではないかと思うのです。

たとえば美しい野バラであっても、あの凶悪な棘(とげ)をチラリと覗かせているので、無暗に踏みしだいたり、摘み尽くしてしまおうとは思わないものです。

反撃編

所謂「いじめっ子」、「愉快犯」と呼ばれる人々がそうかも知れませんが、周囲に対してむやみやたらに加害を振り撒く人種というものが世の中には一定数存在しています。

そういった人々の大半は、元より理屈の次元では生きてはおらず、ただ言葉にならない欲望の赴くままに漠然と蛮行を働いているものだと思っています。そこで反撃を受けることによってようやくハッとして、"正気に戻る"といったこともありますし、「攻撃をすれば、自分も攻撃される」といった自覚を得るに至ります。これがまた無暗な加害の再発防止に繋がりますし、加害者当人を将来的に救うことを初め、他の被害者を生み出さない為の「礼節としての反撃」であるように感じられるのです。

大衆向けの作品ではよく「復讐は何も生まない」といった類の標語が掲げられていますが、果たして本当にそうでしょうか? 私からすると、無暗に加害するタイプの人間は復讐を受けない限り、「自分のやり方はこれで正しい」と増々思い込んでしまい、歯止めが利かなくなってしまうのが実際問題のように思われるのです。少なくとも私は、そういった人間が痛手を受けずしてふと理性的に成るような光景を一度も見たことがありません。

それどころか、ひきこもりの私でも遠い昔には身を置いていた義務教育の場では、「いじめっ子が、反撃を受けてイジメを辞める」という事例を何度か目撃して参りました。勿論、悪口を言われた仕返しに何か鋭利なもので刺傷するとか、殺すとか、受けた行為に対して差が大きすぎるものは決して許されないと思います。そもそも敵意を持っていない「自覚なき加害者」だったりする場合、あくまでも言葉で諭すのが妥当でしょう(本人は冗談のつもりなのが周りを傷つけている。親しげに抱き着いてくる時の威力が強すぎる等々…)。そして、日常の諍いに於いては「反撃は掌か、最悪でも拳で」というのが霊長類の作法だとも思います。

とりあえず、意図的な加害者に対して適度な反撃を行うことは、相手の為にも、場の為にもゆくゆく活きてくる、「礼節としての強さ」であるように感じられてきたこの頃です。

まとめ

以上、見方を変えれば相手への礼節としても成立している、名付けて「礼節としての強さ」に関して、手短に3つの例を挙げさせていただきました。ここでは3つに留まりましたが、ちょっと探ってみれば他にももっと沢山出て来そうです。

例えば「身なり」などもそうでしょうか。髪型や服装をきちんと自分に似合ったもので揃えて「様になっている」ことは、自身を大事にするのは勿論のこと、お目にかかる相手への敬意にも繋がります。それは見た目にも楽しませられますし、一緒に居て誇らしいとも思っていただけるわけです。もっと言えば、姿なき祖先らへの敬意にも成りえるのではないでしょうか。我々が"頭部が上方に付いている"設計に辿り着いたからこそのオシャレ、二足歩行であるからこそのオシャレ、人種ごとの特徴的な体系であるからこそのオシャレ、といった具合にです。

人生の内では時に「断固とした態度」が求められる場面もありますが、しかし心根の優しい方であるほど自分が「強くなる」ことに対して周囲を傷つけてしまわないかと不安がって、これを躊躇してしまわれていることが多いように思われるのです。

しかし実際、人は「強くなる」ことによってむしろ相手を安心させたり、場の平和に貢献出来るという側面があることを提示させていただき、尻込みをされている方々の背中を押そうといった狙いも本記事には含まれています。

それから真に心地よい人間同士のやり取りとは、上下関係でも支配でも服従でもなく、お互いがある程度強い存在であり、誇りを持っている上で妥協しあったり、気遣いをしあったり、弱音を吐くのを受け入れてあげたりする瞬間のように私は感じられるのです。また、これは具体的な身分に差がある場合にも成り立つと考えていて、たとえば殿様として庶民への畏怖、庶民として殿様への畏怖を双方が抱いており、よって一方を蔑ろにせず健全に事が進む…といった具合です。

現代の日本では、統治者にとっての国民といえば「何をしても大丈夫な奴隷」といった風なえらく杜撰な扱いのように感じられているので、もう少し何とかなってはくれないかと悔しい気持ちがする日々です。政府の身勝手なわがままが通ることは常ですが、国民側の身勝手なわがままが通った事例はいくつあるでしょうか? 互いに適度な畏怖があってこそ物事は上手く進むという観点から、統治者にとって多少は怖いくらいの国民でなければ、むしろそれは"無礼"といったものではないでしょうか。ともかく私は、階級を問わず各人が強く、それぞれの誇りを持って生きている世界を望んでいます。

以上、ちょっと想定よりも話が膨らんでしまいましたが、目を通された方にも何かしらお楽しみいただけておりますと幸いです。

拙文にお付き合いいただき、誠にありがとうございます。


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