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物語がない「物語」で、なにかが物語られようとすること。(映画「悪は存在しない」を観て)

先週金曜日、映画メディア「osanai」で映画「悪は存在しない」を紹介しました。書き手はエッセイスト/ライターの碧月はるさんです。

僕は鑑賞した直後、「何をみせられたのだろう」と、正直困惑しました。

濱口竜介監督だから、ちょっとしたフィルターがあって皆が賞賛しているのかもしれない。あれを新人監督が撮影していたら酷評される類の作品ではないだろうか。

そんなことを思っていたのですが、碧月さんのテキストを読み、そして映画のことを振り返って考えが少し変わりました。

後世まで語り継がれる名作ではないかもしれません。しかし「善悪」という割り切れないテーマにおいて、「悪は存在しない」と言い切った濱口監督の”覚悟”が垣間見える意欲作だと思います

ラストシーンへの言及は避ける形で、作品について言語化してみます。

「悪は存在しない」
(監督:濱口竜介、2023年)


──

鹿、銃というモチーフ

詳しくは後述しますが、本作は「物語がない」という特徴を有していると思います。

その代わり、物語を感じさせるようなモチーフがたくさん登場します。見出しに挙げた鹿や銃は、映画では「よくある」素材と言えるでしょう。

映画における鹿とは、ある種、不穏な存在として描かれます。「神の使い」といった精霊的な存在として描かれることもありますが、鹿が出てくると、(少なくとも人間にとっては)良かざることが起こるのではないかと勘繰ってしまう。あるいは勘繰らなければならなくなるのです。

銃も同様です。

銃が出てきたら、いずれ発射されなければならない。目の前の登場人物が銃を発射する事情が出てくる。または撃たれてしまう結末が待っている。そんな想像を観客にもたらすのです。村上春樹さんは『1Q84 BOOK2』の中で、チェーホフを引用し、「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」と書きました。

「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ」

(村上春樹(2009)『1Q84 BOOK2』新潮社、P33より引用)

「反復」としての薪割り

同様に、巧や高橋が行なっていた薪割りには、どんな意味があるのでしょうか。

ただひたすら、そして何度も反復される薪割り。薪割りがどんなメタファーになっているのか考えるのも、鑑賞のポイントになるはずです。巧が“便利屋”としてこれまで繰り返してきたこと、あるいは町ぐるみで何かを繰り返してきたこと。もしくは諸行無常な現代を表しているのか。

このあたりは1回鑑賞しただけでは、いまいち掴みづらいところです。

ややズレるかもしれませんが、濱口監督が手掛けた映画「ドライブ・マイ・カー」では、主人公の俳優 兼 演出家の家福が、集まった俳優たちに執拗に「本読み」させるシーンが描かれます。身体を使った演技は二の次で、ただひたすら台本を読ませるのです。

実はこれ、濱口監督が普段から映画づくりのプロセスで行なっていることだそうです。映画パンフレットには、高橋を演じた小坂さんが「本読み」のエピソードを語っています。

実は濱口さんが現場で演出をつけることってほとんどないんです。本読みのときはめちゃくちゃ厳しくて、(中略)ちょっとでもずれたら「遅い」「早い」「今感情が入った」とものすごく細かく演出が入り、しかも毎回語尾や接続詞が変わる。

(映画パンフレット P27より引用)

僕はこれを読んで、薪割りは、濱口さんでいう「本読み」とすごく似ているように感じました。映画の演出において、練習として反復させていた本読み。それが映画の出来を左右することになる。

薪割りも同様です。うまく割れるときもあれば、微妙にズレるときもあるでしょう。何年も続けていけば、そんなに失敗も起こらないでしょうが、細かく感覚のズレは起こるはずです。呼吸の入り方とか。

巧にとっては、薪割りの如何が、人生の機微を決定するのかもしれない。(その後、彼は常にタバコを吸いますが、タバコの味も多少変わったりするのでしょう)

作中でたびたび挿入される薪割りのシーン。巧を演じた大美賀均さんの表情はなかなか読み取れませんが(「読み取らせない」ように大美賀さんを起用したのでしょう)、物語の展開の上で、重要なブリッジとしての効果があったように思います。

物語はなくても、「物語」を感じてもらえる

編集や音楽に重きをおかれた本作に、「物語がない」というのは言い過ぎでしょう。しかし、登場人物同士の関係性や、住民説明会前後の詳細などが書かれていない中で、観客が正しく物語を理解するには限界があります。

しかし、それこそ濱口監督がねらったことなのかもしれません。

巧と花は、実はこんな関係性だったのではないか。高橋と黛はお互いに好意を持っていたのではないか。巧が“便利屋”として町中で担っていた役割は、実は犯罪がらみの何かだったのではないか。

ラストシーンの解釈も含めて、色々な感想が飛び交っています。ただ面白いのは、どの感想も「物語がある」ことを前提にしていたことです

濱口監督は、編集を担当した山﨑梓さんとの対談で以下のように語っています。

カットそのものが持つ物語の力については、僕も強く感じました。山崎さんがなんの情報もないままつないだものを見て、現場で物語を構成するために撮ったカットには、やはり物語に向かっていく力みたいなものが当然備わるものなんだなと実感しました。

(映画パンフレット P33より引用)

当然備わる」と書かれているのが、印象的でした。

台詞がなくても、人物が動いていなくても、色々なシーンが細切れで渡されていたとしても、どこか物語に向かっていく。どこか「ひとつ」に収斂されていくとは限らないけれど、観客固有の物語になっていくというのは、とても贅沢な体験ではないだろうかと思いました。

──

もともとは、「石橋英子さんの音楽パフォーマンス用の映像を編集してほしい」といって始まったプロジェクト。出演者の小坂さんも「出来上がりにはサイレントになる」と聞かされた上で、演技に臨んだそうです。

観客の多くは、映画を「音声つき」で鑑賞したと思います。でも、耳栓などをつけてサイレントの状態で映画を鑑賞したらどうなるのだろう?という思いも出てきました。

ちょっと僕にはその勇気(と時間)がないので、チャレンジできませんが、「“音声なし”の状態で『悪は存在しない』を鑑賞したら、どう感じたか」について、どなたかレポートしてくれると嬉しいです。

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