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ゴジラというIP(映画「GODZILLA ゴジラ」を観て)

本日は怪獣映画の新作「ゴジラ-1.0」の公開日だ。

山崎貴さんが監督を務める本作は、全国各地の劇場で広く上映されており、早くもスマッシュヒットの予感がする。

上映開始から半日も経たずにこんなニュースが出るのは笑ってしまったが、映画が盛り上がることは嬉しいわけで。(評判も良さそうですね)

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公開初日に鑑賞したかったのだけど、残念ながら映画館にアクセスできる環境になかった私。代わりに、ギャレス・エドワーズ監督の2014年公開作品「GODZILLA ゴジラ」をAmazon Prime Videoで観た。

ギャレス・エドワーズ監督は、先月公開の「ザ・クリエイター 創造者」が絶賛されている。監督自身、日本のポップカルチャー好きだと公言しているが、「GODZILLA ゴジラ」においても、その感じは色濃く出ている。

「ザ・クリエイター 創造者」では、AIに対峙するアメリカ軍の兵器が少しだけエヴァっぽかったけれど、「GODZILLA ゴジラ」に出てくる怪獣・ムートーはさらにエヴァっぽい。鋭角なフォルムや、関節のあり方など、むしろ「エヴァの影響を受けてない」なんていう方が不自然なくらいだ。(※「エヴァンゲリオン」に関して、ギャレス・エドワーズさんが言及しているかどうかは定かではない)

ふたつの作品で共通しているのが、同じSF映画を題材にしながらも、人同士のつながりを軸にしているという点だ。厳密にいうと、「ザ・クリエイター 創造者」の方は、人とAIの交流なわけだけど、「なぜ困難に対峙できるのか」という理由が、人間の情緒的な感覚によるものだというのが興味深い。同じゴジラでも、庵野秀明さんが手掛けた「シン・ゴジラ」では家族愛のような感情は一切描かれない。ただただ国家の一大事にどう立ち向かうかという「政府」の視点が反復されるだけだ。

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「ゴジラ-1.0」公開に先駆け、昨日、山崎貴さんとギャレス・エドワーズさんの対談記事がアップされていた。

両者に共通していた考え方は、ゴジラ=自由なIP(知的財産)であるというもの。一定の制限やルールはあるものの、ひとたび「ゴジラとは何か」の解釈を潜り抜けたら、どんなふうに料理しても良いという。

作家たちがそれぞれのアイデアを投入した、新しいものをどんどん作っていけばいい」(山崎貴)
ゴジラはよく考えてみると、かなりクレイジーなアイデアです。一見、成立しないような物語や存在なのですが、何かしっくりくるものがある」(ギャレス・エドワーズ)

そう考えると、ギャレス・エドワーズ監督が「GODZILLA ゴジラ」で示したラストシーンは、それなりに納得できる。人間に寄り添うゴジラがあってもいいし、人間と敵対するゴジラがあってもいい。人間の醜い部分の象徴でもあるゴジラだけど、「人間」そのものを表象するものであるならば、ゴジラは人間の美しい部分の象徴にもなり得るというわけだ。

日本で生活している人たちにとって、ゴジラは非常に馴染みの深い存在だ。なんせ日本は、ゴジラが生まれた国なのだ。

「GODZILLA ゴジラ」という作品は、映像の素晴らしさも高評価のポイントだろう。だがゴジラが生まれた国に住むひとりの生活者として、メタ的な視点で「GODZILLA ゴジラ」を捉えても良いだろう。

ギャレス・エドワーズという稀代の映画監督が、どのように「ゴジラ」というIPを解釈したのか。そうやって、次々に生まれてくる「ゴジラ」を受け入れるのも、ゴジラ映画を観るひとつの楽しみといえるだろう。

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唯一残念だったのは、渡辺謙さんがゴジラのことを、普通に「ゴジラ」と発音していたことです。

ここは英語の発音を忠実に「ガッジーラ」でいくべきでしょう。

ただまあ、ギャレス・エドワーズさんの「ゴジラ」へのリスペクトというか、ゴジラが日本のIPだということを尊重してのことだとは思うんですが……。ちょっと違和感だったかなと思います。(きっと発音については、めちゃくちゃ議論があったのだろうと信じていますが)

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