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未来の教養、フューチャーズ・リテラシーとは?

「Futures Literacy」という言葉をよく耳にする。

FL(Futures Literacy) is a capability. It is the skill that allows people to better understand the role that the future plays in what they see and do. People can become more skilled at ‘using-the-future’, more ‘futures literate’, because of two facts. One is that the future does not yet exist, it can only be imagined. Two is that humans have the ability to imagine. As a result, humans are able to learn to imagine the future for different reasons and in different ways. Thereby becoming more ‘futures literate’.
(UNESCO HP「Futures Literacy(*1)」より引用、太字は私)

フューチャーズ・リテラシーとは?

ざっくり要約すると、フューチャーズ・リテラシーは「より良い未来のために何を見聞きし行動すべきか」を知る能力のことだ。

単一の視点でなく、複眼的視点を持ちながら未来への想像力を培うことは、環境変化が激しくなる将来において必須になる。らしい。

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かつて識字率が高くなかった時代、リテラシーとは「読み書き」能力を指す言葉だった。より良い社会を目指すためには、ムラを越えて、他者とコミュニケーションを図ることが必要だった。(そして学校における集団教育は、読み書き能力の向上に極めて効率的なシステムだった)

読み書きという意味でのリテラシーが飽和状態になった現在、求められているのはビジネスコミュニケーションに関わるリテラシーだ。経済界を中心に「英語(or 中国語)」「会計スキル」「プログラミング」などの専門性の高いリテラシーが要請され続けている。

そんな中で、フューチャーズ・リテラシーという言葉が出てきたのは、もはやそれらのリテラシーが(飽和状態になっていない中でも)古びつつあり、リテラシーの定義そのものをアップデートする必要があるということのように僕は感じている。

「未来を考える」には、場作りが不可欠だ

以下のnoteでは、フィンランドでの取り組みが紹介されている。

例えば小学生向けのワークショップを行なう場合、公教育だけでは力不足だろう。一定数のステークホルダーを巻き込み、あらゆる分野を越境できる議論をデザインしなければならないからだ。

編集者・菅付雅信さんが今年企画した中学生向けのアートスクール「GAKU(*2)」が参考になる。

山縣良和さん、森永邦彦さん、菅原小春さん、真鍋大度さんなど、第一線で活躍するクリエイターが講師となり、中学生に学びを提供する。受講生は毎回課題が与えられ、プレゼンを行なう。受け身でなく主体的に参加しなければならない。

今だけを考えて、創作に取り組むクリエイターはいない。

クリエイターがどのように未来を捉え、どのようなクリエイションを行なっているのか。同じ視座に立つことで、未来を自分事として捉えることができる。

受講料も負荷も決して低くないが、中学生にとって替え難い経験になるだろう。

情報社会では、人間の自己判断や予測能力が追いつかなくなっていく

『自由のこれから(*3)』の中で、平野啓一郎さんは法学者・大屋雄裕さんと対談をしている。

大屋:(情報社会の到来により)我々は、二つの方向の展望に直面しているように思います。
一つは、自閉する方向です。見たいものしか見ない。ツイッターなんかそうですよね。自分の選好に近い人たちをフォローすると、みんな同じようなことを言っているから「俺は正しかったんだ」と選好が強化されていくわけです。
もう一つは、情報処理システムが自己決定をサポートする形で支援するという方向で、アメリカの法学者キャス・サンスティーンの議論が代表的です。すなわち、個々人の選択コストが上がってきているのだから、実質的な選択可能性を確保するためには、デフォルトで選択肢を絞ってやることが必要なんじゃないかと。(中略)
それでもやはり自己選好は強化されるんじゃないかという批判が考えられますが、サンスティーンは、それに対して、「ゆらぎ」を人工的に作ってやればいいだろうと言います。たとえば、アマゾンのオススメに一定のノイズを乗せてやり、偶然の出会いを演出すればいい。それが彼の言う「セレンディピティ・アーキテクチャ」です。
(平野啓一郎『自由のこれから』P86〜87より引用、太字は私)

要するに、適切な情報収集が不可能になるか、AIによるキュレーションに頼るかという二択だということ。

建築物やコンピュータシステムの論理的構造を示す「アーキテクチャ」という言葉が使われているのが象徴的だ。人間の直感を刺激する「偶然」すらもAIの演出に懸かっているという未来の姿に、本当の意味での自由は見出せない。

フューチャーズ・リテラシーを意欲的に向上させることは、人間が人間足らしめるための賢明な判断なのか、それとも延命処置に過ぎないのか。

その答えを僕は持たないが、僕はできる限りの楽観志向を持ちながら、未来のことを考え続けたいと思っている。

参考リンク

*1 Futures Literacy(UNESCO HPより)

*2 東京芸術中学(GAKU)

*3 平野啓一郎『自由のこれから』(ベスト新書)


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