見出し画像

【#結婚式に自由を】いい夫婦の日に寄せて

【11月22日】

今日はどうやら、「いい夫婦の日」らしい。
全く意識していなかったんだけど、オリジナルウェディングを手がける株式会社Crazyさんが新しいキャンペーンを仕掛けていて、朝から晩までタイムラインを占拠していた。キングコングの西野さんもうっかり巻き込まれたりなんかして笑、凡人の僕でさえ、思いがけず夫婦や結婚式の形について想いを馳せることになったわけです。

Crazy Weddingに結婚式の仕切りをお願いした理由

僕が結婚式を挙げたのは、2016年4月29日。
本当は、僕は結婚式なんてやりたくなかった。

理由は簡単。
お金がかかるから。
無意味に目立ちたくなかったから。

僕はそれなりに自己主張や承認欲求はあるので(じゃないと小説とか書かないですよね)、目立ちたがり屋な気質はあると思っています。でも僕は意味なく目立つのは嫌で。自信のあること / ものしか伝えたくないし、自信のあること / ものでしか表れたくないと思っている派なわけです。(ややこしいですが、ちょっとのニュアンスの差異を感じてもらえると嬉しいです)

お金がかかるから、結婚式を挙げたくないというのは非常に合理的な理由で分かりやすいと思うけれど、僕は結婚式で新郎新婦が主役になっているという状況があんまり良く理解できていなくて(普通は主催者側でなく、招待されるゲストを主役にしないといけないはずですよね…)。

いま、僕は酔っ払っているから何でも言ってしまうんだけど、結婚式には良く分からない「ルール」が多すぎる。
ファーストバイトとか全然意味分からないし、キリスト教徒でもないのに神に誓いを立てるのも意味不明だし、なんでゲストにスーツ&ネクタイ着用を(半強制的に)義務付けるような仕様になっているのかも良く分からない。些細なことかもしれないけれど、そういうのが延々と組み立てられてしまえば、あっという間に「普通の結婚式」が成立してしまって。
殆どの人が「普通の結婚式」しか知らないから、そんな普通から逸脱する予感のある僕らの結婚式を、両親でさえも当日まで物凄く警戒していました。

僕ら夫婦の結婚式は、千葉県市原市の里山のとあるアート作品の前で挙式を執り行ない、近くの廃校を貸していただいて披露宴を行ないました。
この投稿の目的は、僕たち夫婦の結婚式の詳細を語る場ではないので端折ってしまうけど、一言添えるならば、二人の価値観が揃った場所でやることに意味があったわけです。
その場所で結婚式が行なわれたのは初めてのことで(この先もないだろう)、それゆえにゲストの皆さんには不便をかけてしまったけれど、僕たちらしい結婚式になったと思う。

どうしたらゲストの皆さんが楽しんでくれて、どうしたらゲストの皆さん同士が仲良くなれるのかの仕掛けも考えた。高校時代の大事な友人を一人だけ呼んだんだけど、彼が孤立したり居心地が悪くならないように真剣に考えた記憶がある。少なくとも、テーブルクロスの色で悩むことはありませんでした

Crazyさんの宣伝をするつもりは全くないけれど、プロデューサーのこゆっきーさん智也さんは真剣に僕らの話に耳を傾け、実現に向けて全力を注いでくれた。「〜と思う」とか「きっと〜してくれた」とかじゃなく、それはもう本当に寝る間を惜しんで頑張ってくれたと思う。
「何でも言ってくださいね!」という言葉に甘えて、Word20ページ分くらいの要望書を送ってしまって。今思えば感嘆してしまうほどに、精一杯の愛情を注いで、僕らの結婚式の完成に力を注いでくれたと思っています。年齢は一回りくらい違うのに、同じ目線で物事を考えてくれる、本当に尊敬できるかけがえないのないパートナーでした。

人間死んだら何の意味もない

平成最後、なんて表現がありふれている昨今、多様性が認められる世の中になってきていると思う。(マウンティングが異常に嫌われている、という側面もあるけれど)
だから夫婦の形も様々で、LGBT、事実婚、ひとり婚という形も珍しくはない。友達も離婚したり再婚したり、というのが当たり前になっている。「バツイチ」という言葉もあまり聞かれなくなってきた。何が◯で、何が×かは一概に語れない。当たり前っちゃ当たり前なんだけど。

そんな中「夫婦のあるべき姿って何だろう」というのは、イシュー自体が的外れな気もします。

話は変わって。
人生の目的を「生き抜くこと」としているのは極めて合理的だと個人的には思います。
そのための手段として、定期的なエクササイズ、仕事を生計を立てる手段と捉えること、ロハスなどがあるわけで、もしかしたら同列に夫婦生活を営むというのも挙げられるのかもしれません。(「安心を買う」という手段として)
夫婦であることが生きるための合理的な判断として捉えることはドライに聞こえるかもしれないけれど、そう割り切るメリットも少なくはない。依存し過ぎて、配偶者と死別した後で、急速に老衰する高齢者もいると聞く。ドライに考えていれば、別の手段で「生き抜き」を考えられるような気もしなくはない。
極論だと分かっていて、こんなことを可能性として述べているけど、さて自分はどうだろうと考えたときに即答はできない。「うーんうーん」と唸って、間違わないような無難な回答を捻り出すのが関の山ですね。11/22内に投稿するには時間がなさすぎる…!

さて、もう一度「夫婦の」「結婚式の」あるべき姿について考えてみる

話が脇道に逸れてしまったので、改めて夫婦のあるべき姿について考えてみる。何と言っても今日は11/22、いい夫婦の日だ。(あと5分で日付は変わってしまうけれど)

ポエミーなCrazyさんに触発されるわけではないけれど、夫婦というのは「正解のない二人」という定義ではどうだろうか。
そんなこと言ったら、友達同士だって、上司と部下だって、いがみ合っている二人だって「正解のない二人」に違いないけれど、利害関係を超えて正解のない関係を模索し続けていけるのは、夫婦しかないんじゃないかなと思います。

正解がない、ということは、「あるべき」ということも存在しないはず。
「こうかもしれない」という仮説はあるし、「こうなったら良いよね」という希望的観測はある。それが1年経った後で変わってしまうかもしれない。ライフステージが変われば、二人が抱いていた「正解らしきもの」は変わる。それは、僕たち夫婦に子どもに生まれて、感じた諸々を経て大きく実感する次第だ。

価値観や大切にしたいものが変化してしまうことが前提だったら、結婚式で誓い合う言葉に何の意味があるんだろう。
それに関しては、僕は小説を書いているので確信しちゃうんだけど、その時点で二人が導き出したコンセプトというのは、替えの効かない大切なものだと思います。歳を重ねて、色んなことを知った後で、「あのとき考えてたことって、未熟で未完成だね」って赤面することもあるけれど、逆に言えば、歳を重ねてしまったら、当時のように着想することはないわけで。ドラマ「カルテット」でいう不可逆なことで、僕は真剣に考えた過程にこそ、一生ものの価値を感じるのです。

#結婚式に自由を  
このハッシュタグは、実は、何にでも当てはまる。

#働き方に自由を
#学校教育に自由を
#コミュニケーションに自由を
#ファッションに自由を

そんな問題提起に感謝しつつ、寝てしまった妻と息子に、明日はちょっとだけ優しくなれたら良いなと思う次第です。
楽しく、自由な結婚式がスタンダードになりますように!
(でも、今の会社の若手社員が結婚したとして、呼ばれなかったら寂しいな!笑)

記事をお読みいただき、ありがとうございます。 サポートいただくのも嬉しいですが、noteを感想付きでシェアいただけるのも感激してしまいます。