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東京で暮らす、野菜を買う

高校時代の友人が少し前に農業を始めた。今年始めに同窓会があったのをきっかけに、彼の畑から野菜を買うことにした。

隔週で野菜が届く。送料込みだと決して安い買い物ではないが、農薬や化学肥料を一切使用しない野菜はとても美味しい。生で食べても口にじんわりと甘さが広がる。今回はズッキーニ、赤大根、人参、ピーマンなどが入っていた。

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野菜と共に手紙が入っていて、それを読むのも楽しみのひとつだ。

前回の手紙にはこんなことが書いてあった。

6月に入り、早くも夏のように暑い日が続いています。そのおかげで、畑の野菜は生育良好ですが、それ以上に元気なのが雑草たち。
雑草と言っても、その種類は豊富で、それぞれに個性があります。畑によって生える雑草がまったく違うのも面白いです。(中略)
同じく厄介なのが、メヒシバやオヒシバなどイネ科の草たちです。彼らは茎からも根を張りクモのように足を広げて拡大していきます。根っこも根量が大きく、個数は少ないですが単体ではハキダメギク以上に強力です。大きいものを抜くと、周囲の土もごっそり抜けて畑に大きな穴が空いてしまいます。大物になると引っ張っても抜けないので、やはり鎌で根をザクザク切って取り除きます。切ったものを放置すると茎からまた根を張るので、逆さまにして乾燥させます。まさに雑草魂といえる恐るべき生命力です!

東京でサラリーマン稼業を営む僕には想像もつかないくらい、農業は大変な仕事だと思う。雑草だって、あるよりはない方が良いに決まっている。それでも雑草=共存するものとして、日々草取りに勤しんでいる彼の言葉に、何だか元気付けられてしまうのだ。

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誰かが言っていた。「工業はインプットすれば期待通りのアウトプットを期待できるけれど、農業は色々な要因で期待通りのアウトプットにならないことがある」と。入力と出力の不一致が生まれかねない産業は、人によって「非効率」と見做されてしまう。

それでも東京では、意外にも家庭菜園に取り組む方が多い。庭先にせっせとプランターをこしらえ、トマト、きゅうり、ナスなどを育てている。「土遊び」という非効率な行為は、僕らを原点回帰させてくれるのかもしれない。

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東京で暮らす。

東京は生活コストが高い。僕は利便性を最優先して何とか暮らしているけれど、僕らが口にする食材の多くは全国各地の「生産」に依存している

だけど、食材の「価値」には無自覚だ。例えば僕たち家族は、牧場で汗を流して絞られた牛乳1リットルを150〜250円で買っている。世の中には1本1,000円を超える牛乳もあって、それを好んで飲んでいる人たちもいる。その違いは何だろう……と日常で振り返ることはない。

当たり前のことだけど、どんな生産活動にも固定費がある。その固定費を予め加算し全体量で分割しながら、商品1つ1つには変動費をもとに「価格」が決められていく。固定費を鑑みなければ牛乳の原価はたかが知れている。だけどその原価には、酪農の方々が日々研鑽を積んでいる過程は含まれていない。そう考えると「価値」「価格」の行方みたいなものが途端に分からなくなる

途端に分からなくなるけれど、少なくとも「買っている」という姿勢は間違っているのかもしれない。「買わせていただいている」「売ってもらっている」というのが正しい姿勢なのかもしれない。価格の是非で目くじらを立てる人は少数派だとは思うけれど、時にはゆっくりと、商品そのものの「価値」や「価格」について思いを馳せるのも大切だ

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東京で暮らす。

土曜日の朝、インターホンの音が鳴らされると息子は嬉しそうに玄関に向かう。その経験を作ってくれただけでも、友人には感謝しないといけない。

ありがとう、また美味しいお酒を呑みましょう。

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