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「君と僕」の世界は、あまりに脆弱だ。(映画「風が吹くとき」を観て)

兼業主夫の今井峻介さんに、1986年に上映された映画「風が吹くとき」のテキストを寄稿いただきました。

毎年、映画メディア「osanai」では、8月に戦争に関する映画を多めに取り上げています。2024年も遅ればせながら、いくつかの作品について紹介する予定です。

今井さんのテキストに触発され、私も本作について感想を記したいと思います。

「風が吹くとき」
(監督:ジミー・T・ムラカミ、1986年)

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「君と僕」の世界の崩壊

2000年代に、とある日本のロックバンドが「君と僕」の世界観で曲作りをしていると指摘されたことがありました。歌詞には例外なく「君」と「僕」が現れ、社会と断絶しているようなふたりだけの空間を描いているというものです。

「風が吹くとき」も同様で、作中は「君と僕」のやりとりが大半を占めています。ジム(夫)とヒルダ(妻)はお互いに軽口を叩きながらも、どこか楽しげ。隣人はひとりも出てきません。

結局、その世界は核兵器によって、いとも簡単に崩壊するわけですが。案外これは核兵器はひとつのきっかけに過ぎず、「君と僕」の世界というものはとても脆いものだと指摘しているように私は感じたのです。

なぜ「君と僕」は脆いのか

今井さんはテキストに、「ジムには「従順」、ヒルダには「無知」という役割が割り当てられている」と記しています。

政府など体制に従順なのは、「君と僕」の世界しか知らないからです。同様に無知も、「君と僕」以外の世界に気付かず、ただただ周囲の状況に身を任せるしかないという弱さにつながっているわけです。

ジムとヒルダに、「政府の言うことなんて、あてにならないよ」と指摘する友人がいたならば、彼らがつくる簡易シェルター(「シェルター」とは言い難い粗末な装置ですが)が無意味だと指摘を受けられたでしょう。

特に夫婦という関係は、ふたりの領域に閉じて危険を孕みます。本作は核兵器の脅威を強調しますが、40年近く上映され続けているのは、核兵器に限らず、「君と僕」の世界が脆弱であることを説いているからだと私は思います。

じゃあ、ふたりはどうすべきだったのか

核兵器が落とされてしまえば、もはや助かるかどうかは“運任せ”になってしまうでしょう。ただ当然ながら、核兵器というのは「理由」がなければ使用されません。広島、長崎を最後に核兵器が殺傷装置として使用されていないのは、「理由」が核兵器使用の行使まで至らなかったということです。

つまり、ジムとヒルダがやるべきだったのは、敵国(と便宜的に使いますが)に対して、核兵器を使用させないような状態をつくることだったのではないでしょうか。

当然ながら、敵国だけが核兵器使用の元凶というわけではありません。自国の政府の外交不備があれば指摘すべきだし、場合によっては投票行動によって政治に変化をもたらすことも必要でしょう。

選挙だけでなく、経済や文化の側面からも、さらに一般市民の立場からさえも、核兵器不使用の訴えはできるはず。戦争は「他人ごと」でなく、「自分ごと」として捉えるべきもの。

多かれ少なかれ、そんなメッセージを受け取ることができるはずです。

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ということで、「風が吹くとき」はおすすめです。

近くの映画館で上映されていなくても、Amazon Prime Videoのデジタル配信で鑑賞することも可能です。

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