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【いま、何も言わずにおくために】#001:意味の考古学 後編|森脇透青

※こちらのnoteは森脇透青さんの不定期連載「いま、何も言わずにおくために」第一回の後編です。

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4. 穴、石、文字

 デリダにおいて、「言おうとすること」に対置されるのは、「文字=エクリチュール」である。知られる通り、デリダのいう「エクリチュール」は(そしてそれに対比される「発話=パロール」も)、たんに文字一般を指すのではなく、媒体的なるものの性格一般を指す隠喩である。だが、さしあたり普通の意味での文字をモデルとして考えよう。

 文字は、いままさにあなたがそうしているように、つねに意味に「変換」されている。あなたは今、この文章を読んでいる。もしそれぞれの文字の「かたち」や「大きさ」や「部分」や「色」といった具体的な要素にその都度かかずらっていたなら、あなたはそれを意味として受け取ることができないだろう。あなたは文字の具体的形象をすり減らして抽象化し意味に変換する識字機械であり、あなたの眼はOCR機能を備えたスキャナーなのだ。

 眼がスキャナーになるとき、文字は物質性がない透明な媒体であるかのように偽装して、特定のコードのもと、あなたに意味を伝える。私たちはそうして文字を読んでいる。この際、コードの差異によって、意味の多様な差異が生まれ、解釈上の争いが生じるだろう。だが他方で、この「変換」がうまくいかない状況、プログラム上のバグが生じることもある。単純な誤字脱字や誤植の場合もそうだが、もっと極端な事例、いわゆるゲシュタルト崩壊において文字は、いっさいのコードを受け付けず、知っているはずなのに見たことがないような、既知における未知(ジャメヴュ)として現れるのである。

 そのときエクリチュールは、解釈以前の不気味な暗号——解読不可能な未知の言語のような——となって端的な物質性・形象性において現れ、意味への通路を遮断する。そのとき、文字は「何も言おうとしない」。たしかにゲシュタルト崩壊はいっときのバグにすぎない。だが、にもかかわらず文字から意味への変換プロセスをよく伝えている。意味はいつもこの変換において生じるのであり、文字それ自体に、あるいは文字の「背後」に何かの意味が潜在しているわけではないのだ。

 エクリチュールが「何も言おうとしない」のは、それが「不条理」だからではない。むしろエクリチュールは意味のプロセスにおける媒体として、つねに読み取られ抹消されるという受動的な仕方で、意味の発生を支えもする。そのように文字が抹消されるとき、私たちはそこに無限にも近い多義性、無限に深い「穴」のような意味の拡がりを関知するだろう。このときひとつの文章は、権利上、無限に読解することができるからだ。

 だが文字はそのような状態とはまったく逆に、その形象性において、「石」のような表面性、物質性として現れることもある[5]。過集中あるいは集中力の弛緩によって生じる失語症的状態、そのとき文字は無限に読み取れられる何かではなく、学んだことのない言語のように、端的な線の連なりとして現れる。たしかに一方で文字は解釈者を誘惑して意味を無限に読み取らせる。しかし他方で文字はそのような媚態を突然遮断して、意味への移行を危機に陥れもするのである。

5. 「秘密」について:フィクションに背後はない

 物でもあり言葉でもある、この身近でありながら恐るべき二重性——。しかし事態は「文字」というミニマルな事例だけに限られたものではない。60年代のデリダがエクリチュールという隠喩に訴えかけることで試みていたのは、「言おうとすること」一般、まさに意味一般の発生のプロセスを説明することだった。興味深いことに、この論点は、晩年になって明示的に文学の問題に接続される。たとえば「秘密の文学」(『死を与える』1999年所収)でデリダは「エクリチュール」からさらに一歩進んで、「文学」そのものにこの「何も言おうとしない」要素を認めている[6]。

 文学は「何も言おうとしない」。だが、普通に考えれば文学やフィクションは意味に満ちているではないか? いまにもフィクションを論じようと身構える小さな批評家たちはそう考えるかもしれない。

 しかしデリダは挑発的にも次のようにいう。文学は「何も言おうと」しないし、なんら「厚みをもたない」、その背景になんら「意味」を持ってはいないと。「登場人物の秘密」は実在しない。そこにあるのは、端的な文字の連なりである。「登場人物」は秘密の奥行きをもった「人格」としてではなく、表面的で断片的な記述の束としてのみ存在する。2000年のインタビューによれば、

文学は秘密を保持していますが、その秘密はある種、現実存在しないそれなのです。小説や詩の背後には、〔…〕探求すべき意味などなんら存在してはいません。たとえば登場人物の秘密などは存在しません。文学的現象の外部では、そうした秘密はなんらの厚みももたないのです。文学においてはいっさいが秘密ですが、文学の背後に隠れた秘密などというものは存在しない。そこにこの文学という奇妙な制度の秘密があるのです。

デリダ「他者は他なるものであるからこそ秘密なのです」(『パピエ・マシン』所収)
※強調はデリダ自身による

 たとえば、創り手のかけがえのない記憶がそこに託されていたとしよう。それが「文学」になりアーカイヴ化される否や、記憶が記録化されるや否や[7]、その記憶は厚みも秘密ももたない、「何も言おうとしない」資料的表面に変じる。「書き込む」という行為において、ひそかに歴史性が侵入する。それはすでにして、書き手の小さな死と遺言である。後に残るのは、かさばる紙の束の体積と容量である(だからこそ書き手はつねに不安にさらされる)。

 だが、文学は同時に秘密を読み取らせもする。読者という識字機械はまたもや、表面から深層を、平面から奥行きを、文字列から「人格」を、経験から理念を、フィクションからリアリティを、枯れ尾花から幽霊を導出してしまう。その「秘密」が書き手の「秘密」といかに異なるものであろうとも、フィクションはその背後に意味を幻視させずにはいられない。

 デリダが——もう一段メタな意味で——「文学の秘密」と呼ぶのは、結局のところ、平面でしかないものが立体を幻視させる、秘密なきものが秘密を生み出してしまう、そのメカニズムである。文学は、驚くべき可視性と公共性のなかにありながら、不可視のものを錯覚させる。

 私たちが関心を持つのはこの「秘密」である。この「虚構」と「現実」の間隙にひそむ、独特の錯視的「仮想現実」。フィクションはもはや隠れてなどいないが、他方で絶対的に隠れてもいる。意味が生まれる場所、意味という出来事が生じるその不気味な場所。そこで何が起きるのだろうか?

 もしいっさいのものが「端的に」無意味に存在しているとして、文字が有限な物質でしかないとして、しかしなぜそこから意味が生まれるのだろうか? 欲望が「石」に「穴」を穿とうとしまうのはなぜなのか? なぜ人間は意味を世界から受け取り、また意味を生み出してしまうのだろうか?
 あるいは、一歩進んでこう言ってもいい。なぜ、単なる有限的で物質的な存在者でしかない人間が、アイデンティティや他者からの承認を、つまり、意味を求めてしまうのか?

CLOSING/OPENING:意味の考古学

 繰り返すが、「何もいわずにおくこと」は、沈黙ではない。それはまさに意味のざわめきのただなかで、意味の発生の現場に立ち合おうとする「批評」的努力である。意味の時代においてもし「物」それ自体の「無意味」が礼賛されるのだとしたら、それはあくまで意味との相関物として特権化されているにすぎない。重要なのはこの共犯的相関性をつぶさに分析し、別のものに変えてしまうことである。

 そのような一種のメタ批評がありうるとすれば、それは意味が覇権を握りつつあるこの時代において特殊に(1)考古学的な思考を、さらには(2)政治的な思考を要求するだろう。どういうことか。

 (1)フィクションが読まれうるとして存在するためには、何よりもまず、ものとして存在していなければならない。より正確に言えば、歴史的資料としてアーカイヴされ、伝承されていなければならない。デリダはいう、「一切は遺産相続によって残された痕跡のなか、判読可能だが同程度に判読不可能な残留した痕跡のなかでしか、私たちに到来しない」[8]。意味の発生についての問いは、この独特の意味での「物」——「痕跡」——をめぐる言説に場所を与える。それを私たちはここでフーコーに倣いつつ、仮に、「意味の考古学」とでも名づけておこう。

 意味の考古学は、意味を産出してきた「物」の歴史性を取り出す作業である。それは「唯物論的」でも「メディア論的」でもあるような「伝承」の問題系を呼び寄せる。ここでいう「歴史性」や「歴史性」はまったく独特なものである。フィクションの意味は単なるリニア(一方向的・単線的)な歴史に還元されるものではない。たとえば人類の直線的な進歩や退歩、に意味を還元してしまうなら、そのときその作業は小さな意味をより大きな意味——言い換えれば、「物語」——に回収してしまうだけだろう。意味の考古学はそれを禁欲する。意味は、様々な「物」の独特の連携と持続のなかで編み出され、そのつどばらばらに「漂流」し、別の宛先に届く。だからこそそれは、その時代ごとに異なる意味を生み出す。それゆえに、私たちは具体的にその意味の変容を検討しなければならない。

 同じ「物」が別の意味を産出する事態、この点に着目することは、出来事を考えることに結びつく。たとえば一般に「六八年」と呼ばれている革命的な出来事を例に挙げてみよう[9]。それなしには、おそらく私たちは差別批判という意味を手にすることがなかった。「六八年」は、政治の水準においても文学の水準においても、意味の意味をまったく変えてしまった。「六八年」が「勝利し続けている」(絓秀実)のは、そこにいわゆる大文字の「革命」が生じなかったとしても、そこにある種の不可逆な価値転倒が生じ、現在まで持続しているからだ。

 たとえば過去の文豪の「名作」が、過去の大哲学者の「主著」が、現代から見れば最悪の差別主義を表現していることがありうるように、この出来事の以前と以後において、「作品」の持つ意味はまったく変わってしまう。この意味で「六八年」はまさに訂正と切断の出来事であって、あえて言うなら「訂正可能性」(東浩紀)とは「六八年」のことなのである。

 このように作品の意味は日々変転するのであり、無時間的ではない。無時間的な解釈は存在しない。意味の考古学としての「批評」は、こうした意味を変容させる出来事を肯定し、その出来事を呼び寄せようとする。だがそれゆえに、「批評」は個々の出来事を神聖化しノスタルジーに陥るのではなく、それぞれがもつ切断と持続の効果を冷徹に分析しなければならない。この観点から私たちはある「フィクション」を、さまざまな意味を生み出し、また受容してきた一つのコーパス(資料=身体)として、まったく異なる意味たちが出会い、ざわめきたつ一種の交叉点のようなものとして、考察するだろう。

(2)このような「考古学」には——フーコーにおいてもそうであったように——つねに権力への眼差しが潜んでいる。意味の下部構造としての「物」は破壊不可能な実体ではない。アーカイヴは独特の傷つきやすさをまとっており、その気になればいつでも破棄可能である。だからこそ、それは博物館的・図書館的な資料保存と資料整理の問題に直結する。実際、何を保存するか/保存しないか、何を展示するか/しないかといった具体的な選択および資料の分類の中でこそ、毎日、権力は行使されている。意味の考古学は、語られる「意味」を支える権力構造に目を向ける。だからそれはすぐれて「政治的」なのである。

 だが、意味の考古学が「政治的」なのはそうした一般的な権力論だけにはとどまらない。意味の考古学にとっては、意味への欲望もまた問題になるからである。すべてが資料的な伝承、保存、分類といった唯物的「形式」への還元のなかで終わるわけではない。意味以前あるいはメタ意味的な「物」に助けを求めることですべてを終わらせる潔癖症的無意味主義は、積極的に避けねばならない。それは意味の発生に対する否認である。

 人間は意味を求める奇妙な動物である(それを「生」と呼ぼうが「実存」と呼ぼうが「フェティッシュ」と呼ぼうが自由だ)。それがたんに退屈なイデオロギーだとしても、イデオロギーにもまた固有の分析すべき領域が存在する(このような分析に乗り出した思想家こそマルクスであり、この点で私はマルクス主義者を標榜する)。

 いっさいを労働と階級の水準で語る唯物論に対して、承認論——アイデンティティ政治というよりも私たちの語彙で意味の政治とでも呼びたいところだ——が登場し、政治運動の中心に競り上がってきた現代において、「意味への欲望」というこの論点はよりアクチュアルに「政治的」である。実際、現代文学の多くが、またフィクションをめぐる「解釈」の多くが、アイデンティティと承認の周りをめぐっている(それゆえ「文学」も「批評」も内面の表現というあの古びた反動的概念に、またふたたび助けを求めているのだ)。そしてもちろん、意味の政治はマイノリティの承認と同時に、ある主体に簡単に意味を付与してくれるナショナリズムの神話的スペクタクル、パターナリスティックな福祉国家、あるいは国家を超えた陰謀論的世界観に好機を与えてしまうものでもある。

 だから意味の考古学は、一方で意味への欲望をイデオロギーとして批判的に検証し、意味の政治を挑発し、「物」との交渉において位置付ける。しかしながら、他方でこの宿命的な、意味への「破壊不可能な」欲望に直面しもするのだ。少なくとも私たちが相変わらず「近代」を生きる「人間」であってしまうかぎり——いくら「動物」や「機械」に憧れようと——、この退屈で既視的な意味への欲望(ヘーゲルはそれを自己意識と呼んだ)を破壊することはできない。

 かくして、イデオロギーの批判的分析としての意味の考古学は、二重戦略を余儀なくされる。私たちはさしあたり意味を批判しながら、しかし意味の次元で語るしかない。だから意味のメタ批判は、最終的にはその語そのものに抹消を抱え込むことになるだろう(メタクリティーク)。

 意味の時代を破壊する、意味のラディカルな変容——出来事——、いま「批評」は、「何も言わない」ままに、そのチャンスを発明しようとしている。いっさいをシステムに還元しようとする非人間的で自働的な統治機構と、その残余としてますます神秘化されていく「人間的な」意味への欲望。機械的統治(グローバリズム)と意味の政治(ポピュリズム)のあまりに自明な共犯関係。私たちの「批評」は、そして「フィクション」の力は、そうした共犯と悪循環を引き裂き開口部を広げる、ひとつの叛逆でありうるかもしれない。


[5]ここで用いた「穴」と「石」の隠喩は、千葉雅也による(千葉雅也『意味がない無意味』を参照せよ)。千葉によれば、「穴」もしくは「穴−秘密」は、「意味がある無意味」である。「穴」は、それ自体は何も意味しない=解釈不可能だが、それによって無限の多義性と解釈可能性を引き起こし、意味を増幅させる対象である。「石」もしくは「石−秘密」は、「意味がない無意味」「無解釈的なもの」である。それは多義性をまとわず、むしろ意味を縮減させた果てにある、世界から切断された端的な無意味もしくは有限性、たとえば身体に対応する。
 ここで用いた文字の例に関して言えば、それは一方で無限に読解可能で無限に意味を誘引し続ける「穴」だが、他方では乾いた物質として、解読にいっさい応じない「石」(あるいは、厚みのないインク)として現れる。たとえばヒエログリフはまさに「石」に刻み込まれるが、それはむしろ「くぼみ」あるいは「傷跡」であり、「穴」ではない。
 エクリチュールが結局のところ解釈され(う)る以上、「無解釈的」ではないと千葉は言うかもしれない。だが、少なくともデリダの思考において、エクリチュールに対するこのふたつのアプローチが重なり合うかたちで存在することは確かである。それは千葉も参照しているように、東浩紀が「存在論的=否定神学的」/「郵便的」と呼んだふたつの位相に対応している(東浩紀『存在論的、郵便的』を参照せよ)。ここで問題は、エクリチュールが解釈可能なもの、解釈不可能なもの、無解釈的なもの、そして接続と切断を循環する一種のネットワークとして機能していることである。千葉に引きつけて言えば、私の関心は、「石−秘密」と「穴−秘密」、人文学と「非人文学」(千葉)の関係、相関主義と思弁的実在論の相関性にこそあるのかもしれない。

[6]ただし、「秘密の文学」においてデリダは文学を「何も言おうとしないことを赦してください」という謎めいた一文から特徴づけている。ここではこの「赦し」の問題系を扱うことができないが、この論点においてまさに、デリダにおける宗教論と文学論が交差している点は注目に値する。

[7]「記憶の記録化」は、以前、私が講談社の文芸誌『群像』の新人評論賞(2021)に投稿したルソー論の副題である(「ルソー、レトロスペクティヴ——記憶の記録化についての試論」、新人評論賞最終候補作)。このNote企画はこのルソー論と陸続きでもある。このルソー論については、いずれ改稿して公表したいと考えている。

[8]この文言は、カフカの「父への手紙」という作品を読解する過程で述べられたものである。この読解には、デリダにおける意味、秘密、郵便といった問題系が凝縮している。「この秘密の手紙〔カフカ『父への手紙』〕は、それが公的なものに、公開可能なものに、相続すべきアーカイヴに、さらには遺産相続という現象に〔…〕なるという危険を冒してはじめて、その手紙のリテラルさ〔littéralité〕において、文学になる。〔…〕こうした一切は遺産相続によって残された痕跡のなか、判読可能だが同程度に判読不可能な残留した痕跡のなかでしか、私たちに到来しない。この残された痕跡、この遺産はまた、〔…〕文学的資料における遺言的パロールになるというチャンスあるいはリスクでもあった。この遺棄そのものによって文学になることで。この遺棄はそれ自体、決定不可能性によって、すなわち秘密によって、起源と終末、宛先と受信者の、意味と指示対象の〔…〕誤配〔destinerrance=運命彷徨〕によって、漂流するがままになっているのである」(デリダ「秘密の文学」『死を与える』所収)

[9]これについては絓秀実『1968年』(ちくま新書)および『増補版 革命的な、あまりに革命的な:「1968年の革命」史論』(ちくま学芸文庫)を見よ。ただし「革命」という語には注意が必要である。フーコーがいうように、出来事がそれぞれの領域の言説に生じさせる変化には、独特のリズムとずれ(またフーコーのいう「粘性」——カンギレムから借り受けられた概念語)がある。「考古学」にとっては「ただ一つの同じ切断が、あるとき突然すべての言説分析を分割し、それらをただ一つの動きによって中断させて、同じ諸規則に従ってそれらを再構成するのだ、などという考えは、保持されえない」(ミシェル・フーコー『知の考古学』慎改康之訳、河出文庫)。あらゆる価値観を転倒させ何もかもをリセットするような意味での、神学的・終末論的な意味での「革命」は端的に存在しないだろう。


著者プロフィール

森脇 透青(もりわき・とうせい)

1995年大阪生まれ、京都大学文学研究科博士課程所属。批評家。専門はジャック・デリダを中心とした哲学および美学(学術振興会特別研究員DC2)。批評のための運動体「近代体操」主宰。著書(共著)に『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)。『週刊読書人』にて月一論壇時評「論潮」を連載中。
Twitter:@satodex


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