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解説 マルクス・ガブリエル 『アートの力』

『アートの力』は、『なぜ世界は存在しないのか』等の著書で知られる哲学者、マルクス・ガブリエルによる芸術論です。作品を深く理解する上で、特定のジャンルについて背景知識を得る方法ではなく、アートとは一体どんな存在なのか、その自律性を徹底して考えることでアートの持つ力を明らかにします。本記事では、導入に適した訳者解説を一部公開いたします。

解説 マルクス・ガブリエル 『アートの力』

大池 惣太郎

本書は、「新実在論」の旗手であるマルクス・ガブリエルが、自身の哲学をアートに適用した本である。主著『なぜ世界は存在しないのか』の第六章「芸術の意味」の内容がさらに推し進められ、「アートの力の実在論」というべき、珍しい議論が展開されている。珍しいと言うのは、よく巷で見かけるアートの存在論と、似ているようで大きく異なるからだ。

アートの存在論とは、アートとは何か、ある作品がアートであるとはどういうことかを考える議論のことである。その種の議論は、ネット上のまとめサイトから専門書まで、数多く存在する。それだけ多くの人が、アートとはいったい何なのか、よく分からないと感じているのだろう。実際、現代アートの美術館やフェアに足を運んで、「いったいこれの何がアートなの?」、「この作品について何をどう理解したらいいんだ」と当惑した経験は、大なり小なり誰にもあるにちがいない(訳者にはよくある)。そういうときには、何だか置いてきぼりをくったような、場合によっては腹立たしい気持ちにさえなって、アートの世界がますます遠く感じられるものだ。

しかし、本書『アートの力』を読めば、アートに当惑する経験は誰の身にも訪れるものだ、ということがわかるだろう。というのもガブリエルによれば、「どんなアート作品にも共通に備わる内容など存在しない」からだ。つまり、アートの存在論は作れないのである。

もしアートが何であるかを断言できるなら、アート作品をどう受け取るべきかも決まってくる。たとえば、「アートは人間の感性を豊かにするものだ」という定義が成り立つなら、観賞によって自分の感性は豊かになるものだと考えて作品を眺めればいい。あるいは、「アートは何か普遍的なものを表象する」と言われれば、「この作品が表現する普遍的なものは何か」という観点で作品を判断すればいい。というか、そう言われたら、半ば強制的にそう眺めてしまうだろう。

ところが、もしさまざまなアート作品に共通する本質が何もないとしたら、はじめて出会った作品をどう受け取めればいいか分からないことは、そもそもの前提になる。作品を前に当惑するのが、当たり前なのだ。本書の中心となる主張は、その点に関わる。ガブリエルによれば、「アート作品はラディカルに自律している」。言い方を変えれば、あるアート作品が何であるかは、その作品が実際にどう受け取められているかという事実を離れてあらかじめ決められていない。それも、ラディカルに、とことん深く決められていないのである。

この「ラディカルに」ということの内実を考えるのが、本書の醍醐味になっている。ラディカルに決められていないというのは、「はっきり断言できない」とか、「人によって異なる」とかいった中途半端なことではない。ガブリエルの主張を信じるなら、アートの本質は、ある特別な知識や感受性を持つ人にしか分からないわけでも、さまざまなタイプの作品や観点があるから一概に決められないわけですらもない。自分が具体的な作品と現に出会うその瞬間まで、本当に、まったく、ぜんぜん、決まっていないのである

逆に言えば、「アートの理解なんて曖昧なものだ」と思っている人は、アートの受け取り方が、どこかの誰かにとっては一定程度決まっているのだろう、と考えている可能性がある。そうした考えは、アートの存在論と相性がいい。巷に溢れるアートの存在論(「現代アートとは何か」といったたぐいの解説)は、特定のアートの潮流について、「こういうタイプの作品はこの観点で眺めると面白さが分かりますよ」と推奨するものが大半である。どちらにしても、アートについて一般的に語れる位置があることを前提しているのだ。

特定の見方や情報を知ることで、アートをその上位の審級から理解できると信じている人に向けて、まさに本書は書かれている。ガブリエルによれば、アート作品が何であるかを事前に決めることは、誰にも、決してできない。なぜなら、アート作品は、特定の見方や秩序に属さず、それ自体が「絶対者」として、独自の秩序そのものとして存在しているからだ。違う観点で言うと、アートと出会うとき、人は作品の外からそれを眺めているのではなく、その作品が自分で用意した秩序のなかに巻き込まれている。それこそが、「アートの力」と言うべきものだ、というのが、この本の中心的主張である。どのような論拠によってガブリエルがそう考えるのかについては、あとで見るとして、まず先に、そうだとすればそこから何が言えるか、訳者の見解をはっきり述べておきたい。

アート作品が何であるかが根本的に決まっていないということは、自分が現にアート作品とどのように出会ったかについて、外的な基準で誰かから文句を言われる筋合いはない、ということを意味する。このように言うと誤解されるかもしれない。これは、「アートはそれぞれ好き勝手に感じればいいものだ」とか、「ある作品をどう感じ理解しようと私の勝手だ」とかいうことではまったくない。その種の言い草は、むしろアートと出会ったこともなければ、出会うつもりもない人の言い分である場合がほとんどだ。自分の恣意や気分で好き勝手にアート作品を受容できるなら、アート作品はそれこそ真面目に捉えるに値しない。

本書が示唆するのは、それと真逆のことである。ガブリエルによれば、アート作品と自分がどう出会うかを決めるのは、アート作品の方だという。そして(ここが一番重要な点だ)、作品と出会うという出来事は、作品について何か自分なりの意見や観点を持つことではないのだ。そうではなく、それはそのまま作品の存在に立ち会うということなのである。そうである以上、自分がたまたま作品と出会ってしまったなら、人から見てどれほど荒唐無稽な出会い方であろうと、それは真剣に捉え、考えるに値するのである

(…)

アートの見方がある程度決まっているとしたら、その見方から開かれる世界がいかに繊細で魅力的なものであろうと、それはやはり制度にすぎないと言える。そうなれば、アートを知ることは、限定された集団の様式や感受性を学びに行く以上のことではなくなるだろう。もちろん、それがいけないことだとは思わない。どのジャンルの世界にも、その世界に精通し、耽溺してみないと分からない素晴らしい眺めがあるはずだ。
アートは、そうした限定された制度のひとつにすぎないのだろうか。アート作品を受容することは、オセロやボルダリングやローマ史に親しむことと同じ次元の問題なのだろうか。明らかに、多くの人はそのようにアートを捉えている。そして実際、その側面もないわけではない。「この絵の作者はウィーン分離派からの強い影響を受けています」という議論に盛り上がることは、「この局面で銀から打つのは天才の発想です」という議論に盛り上がるのと、本質的に同じ次元の問題だ。その面白さを理解できるのは趣深いことであるだろうけれども、アートがその次元に収まるのであれば、アートは時代や地域によって変化する、さまざまな趣味の共同体のひとつにすぎない、ということになる(そして、真っ当な理由から、ぜひそうみなすべきだと主張している人もいる。たとえば、ヴォルフガング・ウルリヒは、アートを特別視する理由はないと主張することで、アートを「芸術」の仰々しさから引き下げ、ずっと親しみやすいものにしようと努めている。『芸術とむきあう方法』を参照)。

それに対して、ガブリエルはアートを特別な存在として扱っている。本書から解るふたつ目の示唆は、アートをオセロやボルダリングと同列に扱うことはできない、ということだ。アートに出会うということは、特定のジャンルの世界に精通し、その内部の観点で対象を理解できるようになることと、まるで違った出来事なのである。本書でガブリエルは、「アート作品の知覚は、一般に間接的段階の知覚関係である。知覚関係についての知覚関係なのだ」と述べている。

【続きは書籍でお楽しみください。】

著者プロフィール

大池 惣太郎
1982年生。明治学院大学文学部フランス文学科准教授。20世紀フランス思想・文学、表象文化論、ジョルジュ・バタイユ研究。主な訳書にパスカル・キニャール『はじまりの夜』(水声社、2020年)など。

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