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『寺山修司の遺産』競馬論の試し読みを公開!

新刊『寺山修司の遺産──21世紀のいま読み直す』が7月下旬に発売いたします。短歌や演劇だけでなく、競馬、映像、デザインなど、多岐にわたる寺山修司の業績に光を当てた一冊。

競馬について論じた章を抜粋・一部変更した上で、試し読みを公開いたします!

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寺山修司における競馬

檜垣立哉

 少しやってみるとわかるのだが、競馬をすることとは歴史の積みかさねの解読以外の何ものでもない。歴史をたどらないと競馬の予想も、いや、本当のことをいえば競馬を「みる」ことも充分にできはしない。当時はかろうじてVHSのビデオによる過去の映像の記録がフジテレビ系列の会社より発売されていた。いまでは相当高品質な過去の各レースの動画がYouTubeに転がっており、夢のようである。そうした日本競馬の「絶頂期」以前にかかれた彼の文章は、それでも競馬の歴史をひもとく貴重な資料であった。寺山が亡くなったのちの1990年代に、寺山の競馬本が大量に再刊されたことには、こうした背景がある。

 本章の最後に記すことでもあるが、競馬にかんする寺山の言葉は、現在でもさまざまな場所で「殺し文句」のようにもちいられている。歌人であった寺山らしく、「競馬は人生の比喩ではない。人生が競馬の比喩なのである」(原文とは少し異なる)に代表される、人口に膾炙するこうした言葉は、一気に競馬場の空間や「賭博」の雰囲気を人びとの前にさらけだす。寺山の言葉は、競馬の世界においていまもって現役である。

独自のエクリチュール性

 しかし、『競馬場で逢おう』などのコラムにおける寺山の文章は実に奇怪でもある。それは普通の意味での予想ではない(明らかに、勝ち馬を真面目に予想するものではない)。お気にいりの馬や騎手への固有の想いいれは深く、話題はボクシングや当時の世情に拡散し、それをヒントに語呂あわせ的に予想がなされたりもする。とはいえ、それはたんなるエッセイでもない。寿司屋(というより場末の飲み屋に近い)の政、トルコ(現在でいうソープランド)の桃ちゃん、バーテンの万田、こうした常連の登場人物とともに、翌日の競馬談義が繰り広げられる記述は、一種のファンタジーに近い。もちろん読者は寺山の「予想」を、幾分かは気にかけたことだろう。ときおりとんでもない穴馬を当てることもある。だが、このエクリチュールがいかなるジャンルに区分されるのかは、定式化不可能である。『馬敗れて草原あり』や『競馬への望郷』等のシリーズには、確かにエッセイといえるもの、自らの牧場訪問記、海外競馬の展望や感想等が含まれ、そのなかに突然詩がもちこまれもする。いかにも寺山的な雑多さに充ちている。

 だが、大半は時代背景の色濃い仲間うちの会話やジャーナリスティックともおもえる雑文でありながら、どこか「賭博」の普遍性を感じさせるという、この両極端のエクリチュールを書き切る点に、寺山の競馬への姿勢そのものがみてとれる。雑多なエクリチュールが、寺山自身の生き方とも、そして彼がたまたま出会い、のめりこんでいった「競馬」とも奇妙に適合しているのである。

 場末の寿司屋の片隅での、人生の愚痴とも、おふざけとも、心情の吐露とも、馬や騎手や調教師への想いいれとも、何とでも解釈できる空想上の会話は、「競馬」という、「金」=「人生」を「賭け」るという意味でも、「人生」が「遊び」であり、同時に「遊び」が人生であるという寺山の思想をよく示している。無論、寺山と競馬とのかかわりは多面的でもある。彼は競馬にかんするひとりの物書きでありつつ、日本中央競馬会(現JRA=Japan Racing Association)のコマーシャルに自ら出演し、あるいは競馬会が出資しているテレビ番組のコメンテータをおこなってもいる。自分で馬主にもなり、地方競馬へも、北海道の馬産地にも足を運ぶ。三沢の寺山修司記念館に保存されている競馬にかんする書籍の量や、そこでのビデオブースのひとつが競馬関係に当てられていることをみれば、寺山における競馬の意義は小さくないはずだ。だが、寺山の競馬の文章は、その特殊性によって寺山研究から「排除」されている現状もある。それはどうしてなのか。

寺山の競馬論の排除

 繰り返すが、寺山の競馬にかんする文章は膨大である。上記のJICC出版や、新書館からのシリーズをのぞいても、『馬敗れて草原あり』は角川文庫から、虫明亜呂無との対談『対談 競馬論──この絶妙な勝負の美学』はちくま文庫から出版されている。そのほかの雑誌などで繰り返し再録される寺山の競馬にかんする文章は、夥しい数になるはずである。
 とはいうものの、「寺山研究」という視点からみれば、短歌や演劇、文芸論などについては多くが書かれているのとは対照的に、寺山にとって競馬とは何であったのかを正面からあつかうものは少ない。率直にいって、寺山研究において、競馬関係文書は排除されているのかとおもわせもする。

続きは本書をご覧ください!

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【目 次】

はじめに
 伊藤 徹

第1章|演劇Ⅰ
虚構が「真実」になるとき――密室劇《阿片戦争》
 伊藤 徹

第1節 実験演劇としての密室劇
第2節 《阿片戦争》という出来事
第3節 虚構の「真実」と「時」

第2章|言 葉
居場所としての言葉――寺山修司の自分語と詩的表現
 澤田美恵子

第1節 定型詩との出会い
第2節 「自分語」という戦術
第3節 詩的表現の時空間

インタビュー
寺山修司と演劇・詩・方言・競馬
 佐々木英明

第3章|映 像
機械仕掛けの巫女殺し――「政治の季節」のテレビドキュメンタリーをめぐって
 青山太郎

第1節 成長期にあった六〇年代のテレビと寺山修司
第2節 「政治の季節」に生まれ育ったテレビドキュメンタリー
第3節 秩序を破る記録映像の力能
第3節 機械仕掛けの巫女を解体する
第5節 お茶の間という神殿

第4章|政 治
寺山修司の「幸福」の政治学
 荻野 雄

第1節 選挙と競馬と電子計算機
第2節 偶然の賜物としての幸福
第3節 幸福への賭けとしての政治的反抗
第4節 寺山修司と新左翼運動の諸局面

第5章|競 馬
寺山修司と競馬
 檜垣立哉

第1節 寺山修司における競馬
第2節 寺山のエクリチュール――生とともにある競馬
第3節 寺山の言葉・言葉の場所

第6章|デザイン
初期の天井棧敷のポスターを読む――劇との関係を中心に
 前川志織

第1節 初期の天井棧敷のポスターを読む
第2節 初期の天井棧敷とポスター
第3節 初期の天井棧敷のポスターを読む――劇との関係から
第4節 初期天井棧敷のポスターを読む――大衆的図像の引用

コラム
あなたはいったい誰ですか?
 広瀬有紀

第7章|演劇Ⅱ
小劇場運動と「肉体」――寺山修司をめぐる文化的野心とともに
 若林雅哉

第1節 寺山修司を宙づりにしてみる
第2節 小劇場運動における肉体への回帰――芸(肉体)と演技(内容)の二極から
第3節 レッテル張りへの躊躇(1)――巨大劇団の忌避と〈異議申し立ての時代〉
第4節 レッテル張りへの躊躇(2)――「肉体」の覇権の諸相
第5節 あとから来た「小劇場運動」――蜷川幸雄による「歴史化」の戦略と文化的野心
第6節 事後の生

第8章|表 現
ナンセンスの時代と寺山修司
 平芳幸浩

第1節 寺山修司と「無意味」
第2節 六〇年代前衛における表現の様態
第3節 無意味から意味へ
第4節 言語遊戯としてのハナモゲラ
第5節 寺山修司にとってのナンセンス

おわりに
 檜垣立哉

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