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【特別公開】『なぜ基地と貧困は沖縄に集中するのか?』志賀信夫「はじめに」

『なぜ基地と貧困は沖縄に集中するのか?』が刊行されました。
本書では、共著者の安里長従さんと志賀信夫さんのお二人がそれぞれの視点で「はじめに」を執筆しています。今回は志賀信夫さんの「はじめに」を公開します。

安里長従さんの「はじめに」はこちらからお読みいただけます。

はじめに 本書で伝えたいこと 志賀信夫

私が専門としている研究分野は、貧困問題である。しかし、本書は貧困問題だけでなく、沖縄の基地問題も重要なテーマとして扱っている。貧困研究を専門としてきた私が沖縄の基地問題について議論しようとすること、これは可能だろうか。もし可能だとするならば、なぜそれが可能だといえるのだろうか。この「はじめに」では、その理由について簡単に説明しておきたい。この理由の説明は、同時に、沖縄の貧困問題と基地問題を一体的に議論すべき理由の説明とも重なり、本書の問題意識の説明と合致するものともなる。

従来、貧困として語られてきたものは「お金がないこと(=経済的困窮)」であった。しかし、近年、そうした貧困の捉え方は変わってきている。貧困の意味は「経済的困窮」だけに限定されず、市民社会の市民として保障されるべき権利が保障されていないために、この社会への同等な参加が阻害されていること、そうした部分まで含んで考えられるようになってきている。つまり、現代の貧困は、経済的困窮を含むいくつかの要素から構成されており、それらの諸要素の一つ以上のものの欠如によって、市民としての諸権利が全うできないでいるような生活状態であると考えられるようになってきているのである。もっと簡潔にいえば、同じ市民社会の市民として、同等の社会参加を希望しているにもかかわらずそれが達成されないこと、これが現代の貧困(=社会的排除まで含む貧困)である。単に、食べていくことができればそれでいいというわけではない。

沖縄の貧困も本土の各地域における貧困も、社会的排除まで含んだかたちで議論されている。ただし、沖縄の貧困問題には特筆すべき側面がいくつかある。そのうちの一つは、相対的貧困率の高さである。そうした数値の相対的な高さは、特筆すべき沖縄の歴史的事実の一側面が反映された結果である。沖縄の貧困問題を議論するならば、沖縄の歴史的事実との関係性についての言及は回避できない。

沖縄の貧困問題を特徴づけている歴史的事実とは何か。その一つは、沖縄の人びとが米軍基地による生活への害、事件・事故のリスクに常にさらされてきたということである。沖縄の人びとがそうした被害やリスクを押し付けられてきたのは、米軍基地の集中があるからである。基地の集中化は、「本土優先―沖縄劣後」という差別を通した序列関係を利用してなされてきた。「本土優先―沖縄劣後」という状況は、本書においてこれから論じるように、経済的な発展についても沖縄に不利をもたらしてきた。

本土から強いられた沖縄の不利は、単なる政治上の不利だけではなく、経済的な搾取の対象となることで、沖縄における人びとの生活様式や行動様式にも影響を与えた。そうした不利の強制によって生じる影響が、人びとの生活様式や行動様式を変化させ、現在に至っている。当然の事実だが、沖縄の人びとは独自の生活様式や行動様式を形成してきた。そして、その独自の生活様式や行動様式は、押し付けられてきた不利や差別のなかで生き抜くために適合したかたちにさらに変化していくことになった。こうした事情が、沖縄の人びとの生活様式や行動様式のなかに貧困の原因があるかのような錯覚、あるいはそうした錯覚に翻弄された言説を生じさせることもある。

まずもって問題として論じるべきは、本土による沖縄に対する差別である。差別を自然化した社会構造を看過し、行動様式や生活様式の特殊性を描き出すことだけに終始した研究の行き着く先は、不利を余儀なくされた人びとに対する「同化」要求の是認・追認・放任である。それは「お前たちの行動や文化に問題があるのだ。だから私たちのようになれ」という抑圧に対して無力である。

しばしば、そうした意図が全く認識されないまま、支配と同化の助長に加担している言説もある。したがって、差別に対して十分に注意を払っておくことがなければ、「私たちのようになれ」という要求にとって都合の良い/悪い行動様式や生活様式の選別に加担してしまうことになるかもしれない。
先行研究が描いているような、貧困を余儀なくされた沖縄の人びとの生活様式や行動様式の特殊性は、いくつかの重なり合う不利を余儀なくされたなかで生き抜くための合理的な選択の結果という側面がある。もちろん、そうした人びとにとっての合理的な選択は、不利を被っていない人びとからみて、常に合理的であるとは限らない。今日を徹底的に犠牲にしながら明日に備えるという行動は、客観的にみて、貧困を回避するための最も合理的な行動かもしれないが、それでは人間としての精神的な安定や自尊心が剝奪されてしまい、生き抜くことはできないかもしれないし、継続可能性も低くなる。上間陽子『裸足で逃げる』(2017)、打越正行『ヤンキーと地元』(2019)、岸政彦ら『地元を生きる』(2020)などの研究は、まさにこうした沖縄の人びとの各階層の行動様式をありのままに記述しており、それを可視化させたという意味では、優れた研究成果である。

ただし本書は、上間、打越、岸らのようにミクロレベルの特殊性をみるのではなく、差別を利用し、(本土優先―沖縄劣後という)序列を自然化したものとしている社会構造にダイレクトに注目する。具体的には、沖縄が余儀なくされている不利の起源を差別に見出し、それを歴史的事実にそくして記述していく。そうすることで、自由の不平等を自由の平等に変え、自由の平等に基づく自己決定のための一契機とできればと考えている。これは、私を含む本土の人びとの加害を徹底的に批判するものでもある。

最後になるが、私は「沖縄の味方」を自認して本書を執筆しているのではなく、平等な自由の擁護者として今回の任務にあたっている。したがって、私は本土の人びとに「沖縄の味方」になるように要求することはしない。しかし、自由の不平等を是正していく責任があることについては、強く要請したい。差別によって生じた被害は、被害者の行動や認識の変容を迫ることで解決するのではなく、加害者の具体的な差別是正の実践によって解決していくという当たり前のことを強調したいのである。

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