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教科書を読む「蜘蛛の糸」④

 2年半前に自分で立ち上げプロデュースしているTBSアナウンサーによる朗読会 A'LOUNGE(エーラウンジ)。気がつけば第8回となりました。
 今回は「村上春樹を読む」と題して村上春樹さんの短編小説の中から2作をTBSのアナウンサーが朗読しました。そしてデジコンシックスアジア受賞者の映像付き!。まさか、こんな風に村上春樹さんの作品を舞台の上で読むことができる様になろうとは、手弁当で30名のお客さまを前にスタートした第1回の時は考えられないことでした。色々な作品にチャレンジさせていただけるほどに成長してるのも嬉しいし、協力者がたくさんになっているのも嬉しい。けどやはり一番嬉しいのは毎回本番でアナウンサーがこれでもかと力を発揮してくれること。役者さんとも俳優さんとも違うアナウンサーの朗読をしっかりと作ってくれること。みんなが終わった後に「堀井さんまたやりたいです!」と言ってくれること。
とりあえずは10回まで頑張りたい・・

では「蜘蛛の糸」まいりましょう。

蜘蛛の糸5

御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報いには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。幸い、側を見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釈迦様はその蜘蛛の糸をそっと御手に御取りになって、玉のような白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御下しなさいました。

まだ極楽浄土の世界が広がっています。暖かで穏やか。陽光の下にある色も翡翠や銀色という無色の結晶から発色し薄く光が散乱しているイメージ。ビビットな世界ではないのです。発する音は芯のある声ではないほうが良いです。一粒一粒の発音を曖昧にするのではありません。息の圧を弱めてぼんやり出し幻想的世界を描いていきます。「御思い出しになりました。」もはたと気づいたのではなくなんとなく思い出しただけです。「出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。」もなんとなくそう思っただけなのです。ぶらぶら、ふと、丁度朝なのでございましょうという言葉からわかるように、お釈迦様の時間、眼に映るもの全ては巧まずして、たまたま、偶然の行きがかり上のことなのです。ここに何かを動かしていこうというお釈迦様の意思はありません。たゆたうような時間の流れを読んでいってください。それには、「なりなが」「なりまし」「出来るな
行動の終点の音を跳ねさせて躍動感を出さない。強く舌を歯茎の裏で破裂させない。ゆっくりと下げて置いていく。「ごんぎつね」に出てきたごんの動い回る「た」や「ら」とは違う発音です。
 「蜘蛛の糸をとって」「まっすぐにそれを御下ろしなさいました。」も何をも強調することなくフラットに読んでいきます。ただここで私が一つしっかりと届けたいところは「まっすぐに」でしょうか。「まっ」から「す」の間に0,05秒の間です。その蜘蛛の糸が意思を持ってカンダタ目掛けて降りていくのです。

こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しょに、浮いたり沈んだりしていたカンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のカンダタも、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。

そして糸が行き着く先は極楽浄土とはうってかわっての地獄です。墨絵と血色の世界。ただただ血みどろの痛みと塗炭の苦しみしかない。勿論出てくる声は低く濁り、音波の振動は少ない。そして遠くへ声を投げるのではなく、出した声を自分の顎下に屈める、極端に言うと喉に戻すイメージです。地獄でうごめく中発せられる圧迫された地響きのような言葉の中でも耳で映像が捉えられるわかりやすい音の葉「針の山」「罪人」「地獄の責苦」「血の池」「死にかかった蛙」はしっかり立ててあげてください。物語には+と−の場面がよく出てきます。善と悪、極楽と地獄、しっかりと区別して行くきます。なぜなのか。ここからは丁寧に前置きというか言い訳をさせてください・・いろいろな解釈があるかと思います。私は昔からこのお釈迦様の行動は解せないなあと思っていました。もうギリギリの人間に上から目線で少しのチャンスを与え人が限界にいてそうならざるを得ない状況にバツを出しもう一度地獄へ落とす。そういう無慈悲なことをさらりとやってのけるお釈迦様という印象です。お釈迦様もカンダタも他の罪人たちも善と悪の二元論では分けられないと思っています。だからこそ情景の極楽と地獄ははっきりと、そしてお釈迦様の行動は客観的にさらりと無責任に。善悪どちらにも寄れる状態で読んでいきたいと考えるのです。

おそらく、いやその解釈は違う!という方もいらっしゃるかと思います。解釈は自由なのでいろいろな読み方があります。それが朗読です。自分の考え、生き方が読みに如実に出るのです。

2020、12、19 TBSアナウンサー 堀井美香