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【日本史】この世をば あの世とぞ思ふ 厄地獄

 「厄年なんて迷信だと思っていますね、その顔は。」そう言っては、ほくそ笑む姿が今でも思い出される。「『かといって バカにできない 陰陽道』ハイっ、決まった、五七五。厄年の由来は明確でありませぬが、平安時代の文献にはすでに登場しているのですなあ。あっ、厄年は今日の本題ではありませぬぞ。陰陽道といえば、天とつながり、占術呪術を巧みに操る安倍晴明さんが知られておりまするが、彼と同じ時代を生きたもう1人の陰陽師、すなわち『権力の陰陽師』と称してもおかしくない藤原道長さんが本日の主役でありまする。『この世をば』の歌で知られるあの人ですなあ。道長さんがあの歌を詠んだのはすでに50代。こういう人には厄年なんて無縁だったのかもしれませんなあ。
 自らの権力を吹き散らした『自己満足』だけの歌に見えて、実はその権力を満月に擬えたところに、彼の憎たらしいほどの『自己分析』を垣間見ることができます。月は自分で光らない。太陽を司る天照大御神、その子孫たる天皇の御威光を受けて輝くその月が、三日月だったり半月だったりする人が多かった中、彼こそが満月だったのでありまする。これ、私の勝手な解釈ですが、この時代を見事に解説した解釈でありまする。ハイっ、こういうのが自己満足でありまする。
 ところがどっこい、この後の彼は病に伏せ、子供たちにも先立たれ、運の尽きですかなあ、たとえ権力が満月であっても、幸せの月が少しも欠けなかった人生とは言い難き晩年でした。ハイっ、今の分かりました?『運の尽き』と『満月の月』が掛詞ね。『幸せの月』と『人生のツキ』も掛詞ね。『掛詞』と『月の欠け』まで掛詞。しつこいですねえ、粘度がすごいですねえ。」・・・この「日本史」の先生のように、私の厄年3年間に襲い掛かった災厄の数々もしつこかった。それはもう、高校生の時には想像もできなかった粘度だった。

 「前厄」の年、母が他界した。それだけも辛い年だったのに、供養する間もないまま、会社で新しい部署への異動が命じられた。端的に言えば「丁稚」の仕事を集約した部署である。お店の仕事というのは、お得意様との商談や大福帳の管理ばかりではない。店先の掃除から客の呼び込み、品物の運搬まで、ありとあらゆる雑務も含めて、全てが店の営業を支える大切な仕事なのである。店に奉公した丁稚はこのような雑務の経験を積んで、礼儀作法や算盤や商慣習なんかも学びながら、手代となり、やがて番頭クラスへ昇格していく。そんな新入社員にも分かりそうなことが、意外にも現代の番頭さん衆には分からなかったのか、世間で多くの会社が腑に落ちないことをやりはじめ、当社もこれを真似ようとしていた。平社員が管理職へと成長する過程で丁稚の業務を経験させるのではなく、丁稚の業務だけを専ら担当させる部署を新設してしまったのである。雑務を「人」にやらせるのではなく「部」にやらせる仕組みを作ろうとしたのである。
 名称は「総合管理部」に決まったが、そこで働く人たちは「管理される側」だった。この部署が出来てからは、全国の店から雑務が無くなった。店にいる社員は雑務に追われる必要がなくなり、プレゼン資料や見積りを作成し顧客と折衝することに集中できたから、一見すると、これは素晴らしい業務改革のように思えた。しかし、1年も経過しないうちに、新入社員までもが「そんな雑務は総合管理部にさせたらいいでしょ」といった生意気な口を叩くようになってしまった。そんな中、嫌気が差したのだろう、「もう丁稚奉公は十分」と言って、有能な一人が辞めてしまった。彼女の仕事は残った社員で手分けすることとなり、忙しさも不満も皆ピークに達していた。ついには彼女の送別会も開催されず、後味の悪い別れ方をした。

 そして迎えた翌年は「本厄」だ。総合管理部の業務に抱いていたイヤな予感は全て的中した。そもそも同じ会社の中に「発注する客」と「下請け業者」という主従関係を形成してしまったわけである。無理のある発注内容でも引き受けざるを得ず、しかも自部署に物事をジャッジする権限が付与されていない。こうしたこの部署の悲しき特徴は如実に表れ、私の担当業務の全てが筆舌に尽くし難いほどトラブルの連続だった。悶々という表現では到底片づけられない心境の日々となり、私は月に一度ほど、会社をズル休みするようになった。スーツを着て、家からは出るのであるが、つい足が会社とは逆の方向に動いてしまい、風邪をひいたと電話を入れて、すぐ近くのコンビニで朝から缶チューハイを買っては飲み干し、一人で街をフラつくことがあった。
 とにかく自分にはどうすることもできない外的問題が次々と生じ、何とかしようとはするのだけど、私に対処しきれる限界を超えた問題が多く、結局、悪者扱いされたり、今まで仲良くしていた人にまで嫌われてしまったり、社内の人間関係がこじれた。強いて良かったことと言えば、自分が予感していた通り、自分が無能な社員であることを確認できたことである。

 退職願を提出する勇気もなく、ひたすら徒労感と虚無感に苛まれたまま、気付いたら正月となり、厄年3ヵ年の最後となる「後厄」の年となった。イヤなことは立て続けに起こるもので、先輩から半ば強引に勧められた縁談を無下に断ることもできず、先輩夫妻も同席する形でお相手と会うことになった。いざ会ってみると意気投合し、今度は二人きりでデートしてみようということに決まったが、デートの当日、インフルエンザを患った。仮病で会社を休んだバチだったのだろうか、数日後、一方的に交際を断る通告を受けた。よくよく回顧してみれば、私は先輩のメンツを潰さないように場を盛り上げていたし、彼女もその私の様子に同情したのか、1回だけはデートしてみるという合意形成に波長を合わせてくれた感がある。その誠意が見え隠れしたがゆえに、却って鈍いナイフで胸を抉られる思いだった。「丁稚がお嬢様とデートなんて100年早い」と自分に言い聞かせ、やりたくもない仕事に再び集中することとした。
 業務内容は「丁稚」なので、目の前のミッションを事務的に処理すれば済むはずだった。それなのに、やることなすことが裏目に出た。やり方さえ分かれば困るはずのない仕事だった。それなのに、部内に突然の退職者が相次ぎ、引継ぎというものが明らかに不十分なまま仕事を引き受けることが多くなって周章狼狽した。前任者より引き継がれたのは、担当業務のしんどさとつまらなさだけだった。

 おそらく「総合管理部」を作ろうとしていた当初の目の付け所はさほど素っ頓狂ではなかったはずだし、生真面目な当社のことだから、他の先進的な会社の状況も事前によく研究していたのだと思う。業務の集約による平準化と効率化を狙ったことにも、本当に仕事の手法や組織の在り方を革新しようという熱い理想があったのだと思う。しかし、その「熱」の伝導の仕方が良くなかった。もともと当社は、冷たく厳しい環境を好まず、従業員を荒波で泳がせるような経営はしなかった。どちらかというと穏やかな凪の中でチームワークに励むことを美徳としていた向きがある。この基本を維持しながら改善の船を漕ぎ出せばよかったのに、「船頭」であった「番頭」の視野が驚くほど狭かったため、この船は座礁した。
 目に見える成果を早く店の主人へ報告したかった出世欲の強い番頭は、職場の隅々まで自分で確認しないと気が済まない性格だった。例えて言うならば、チェーン展開しているラーメン店の本部長級がいちいち現場に立ち、バイトの背後でストップウォッチを片手に、麺の茹で時間にまで口出しをするようなものだった。偉い人が現場に足を運んで視察するのは悪いことではない。但し、1回訪問した程度で「私は本部長という立場ながら、現場にも目配り・気配り・心配りが出来る」という具合に大いなる勘違いをし、あとは自分の机の上だけであれこれ考え、やがて茹で時間の新ルールを定め、ルールに則った茹で時間のチェックシートへの記入を現場に強制しようとする。そういった指示の被害者はいつも手代と丁稚である。当社の長所は「温かい(あたたかい)」組織運営にあったが、番頭は着眼点をそこには置かず、他社に比べて「温い(ぬるい)」と翻訳してしまったのだろう。ハイっ、今のは「翻訳」と「本厄」が掛詞ね。
 ・・・後日譚を披露すると、私の厄年の終わりと共に総合管理部は解消となった。丁稚たちは元の店へ帰っていった。どの会社も同じなのだろうか。時折ややこしい番頭さんが出てきて、周囲に散々迷惑をかけながら、失敗を自作自演してしまうことがある。あの番頭さんは平安京に位置するこの会社の中で「藤原道長」に成りたかったのだろうか。経営を支えるのはやはり究極的には頭脳よりも人望だとつくづく確信した。

 後厄の年も師走となった或る日、次々と襲ってくる災厄のとどめがやって来た。居住するマンションの管理組合の理事就任だ。引き受けてくれる人がいなくて、とうとう輪番制を導入することとなった。まあ、そこまではいい。部屋番号の若い順から始めることが決定され、よりによって1階にはすでに役員がいたことから、いきなり2階の私に輪番初年度の順序が回ってきたというわけだ。でも、ここまでもいいとしよう。問題はここから先だった。「基本的には管理会社が実務を受託しているので、年間数回の理事会に出席してくれれば、それだけでいい」と言われて打診を受けたのに、就任早々、マンションの外壁タイルが剝がれ落ちるという案件が勃発し、それに端を発して施工業者の手抜き工事が発覚し、あっという間に一級建築士と弁護士を頼って訴訟するにまで発展してしまった。

 厄年3ヵ年もあと数日を残すのみとなった年の暮れ、「もうこれで悪いことは起きないだろう」と思っていたら、パソコンが壊れた。中には思い出の写真なんかも入っていたが、データの移行も敢えてせず、厄払いのつもりで全て捨てた。新しいパソコンを買う際、電器店のセールスさんが親切だったという当然極まりないことが、ただもうそれだけで何だか物凄く救いだった。
 そんなわけでパソコン廃棄という厄払いを済ませて迎えた大晦日、もう最後の1日くらいは余計な外出を避けようと家に居たら、あの縁談を勧めてきた先輩からゴルフの打ちっ放しに誘われた。「年末年始割引いうのがあるんや。いや、家に居っても嫁さんがうるそうでかなわん。正月実家へ帰るなら1日前倒ししてくれてもええのになあ。」・・・ドライバーが真っすぐ放物線を描く。珍しく調子が良かった。「おっ、オマエ、ゴルフばっかりしよって。少しは仕事しろ。」と先輩が冗談をぶつけてくる。お決まりの科白だ。この日はアプローチも良かった。まあ、みんな練習場では上手く当たるものだ。「おっ、オマエ、アプローチが上手やのに、結婚できひんとは何事や。」と先輩が冗談をぶつけてくる。ここまでデリカシーが無いと腹も立たない。「先輩、そこは『オマエ、結婚するほど余裕があるのか?少しは仕事しろ』くらいに言って下さいよ」と私も返す。・・・吐く息の白さを感じながら、厄年最後の日に体を動かすのも悪くなかったな・・・そんな心持で、誘ってくれた先輩に感謝していたら、何処からともなく飛んできたアイアンが背中にぶつかった。ぶつけられるのは先輩からの冗談だけで十分だったのに、後ろで打っていた客が強烈なスイングの勢いで不意に手離してしまったのである。「すみません!だっ、大丈夫ですか?」と声を掛けられた私が3年間の締め括りとして年末最後に発した言葉は「大丈夫ですから、私に近づかないほうがいいですよ。厄が伝染しますよ。」であった。

 背中に湿布を貼りながら、私は「日本史の先生の言う通りだったな」とこの3年間を振り返ると同時に、ゴルフ好きの「物理」の先生の授業をふと思い出していた。何かにつけてゴルフを持ち出す。「ドライバーで球を打つ。そのドライバーと球との短い接触時間の間にも働く力が複雑に変化する。このように捉えると『運動量』と『力積』の関係がハッキリしてくる。」・・・いや、ハッキリしているのは、この授業が分からないということだった。ゴルフ部でもない限りゴルフ経験のない高校生にとっては、ただでさえ理解不能な物理が余計に理解不能に陥る。しかし、この先生、時間や空間の捉え方については哲学的なところがあって、たまに大幅に脱線するトークが好きだった・・・つづく

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