【社会科見学】妻子無く 靴下臭い イヴの夜
クリスマスイヴの新世界の映画館は、床へそのまま横になって鼾をかいている客などに御構い無く、往年のヤクザ映画三本立てという豪華っぷりだ。座っている客はというと、こちらは皆、靴を脱ぎ、足を前の座席の肘掛へ放り出しているので、靴下の蒸した悪臭にウッとなる。が、入館後5分も経過し、暗闇に目が慣れた頃にはすっかり鼻のほうも慣れてしまう。折角慣れたところに、誰かが震える手でカップ酒を溢してしまい、今度は別なニオイが充満する。アルコールには消臭効果があるけれど、これは明らかに靴下と化学反応を起こした結果、健康を害する何かが発生した警告とも云えるニオイだ。鼻ばかりか目まで刺激を受けているうちに1本目が終わって館内が明るくなる。幕間に流れるド演歌を聞きながら、後ろの爺が大欠伸で「あ~あ、6時かあ」と言う。客の多くが一斉に屋外のトイレへと駆け込むが、並ばずに用を足せるようになっている。一人ひとりに便器があるわけでなく、溝の掘ってあるタイル一面に向かって、汚垂れ石とも何とも称せない一段高くなった壇の上から全員横並びで放尿するだけだ。真冬の夜空に立ち上る湯気に、再び鼻ばかりか目まで刺激を受ける羽目になる。
2本目もパターンは同じだが、何を何度観ても飽きないのが往年のヤクザ映画の素晴らしさである。訳アリの旅烏が客人として迎え入れられた先で、任侠を重んじない悪党が堅気の商いと組のシマを汚しまくる。我慢に我慢を貫くも、とうとう信望の厚い親分が闇討ちされたのを機に、堪忍袋の緒が切れた若頭を制止して、客人は代わりに一人、長ドス一刀で斬り込みへ向かう。降り積もる真っ白な牡丹雪が、外道たちの真っ赤な血しぶきに染まり、痛快な「完」の筆文字がスクリーンに極まる。これぞ至高のホワイトクリスマスだ。
涙に誘われた私の目の前が明るくなると、幕間に流れるド演歌を聞きながら、後ろの爺が大欠伸で「あ~あ、8時かあ」と言う。「兄ちゃんも負けたんか?そうや、3コーナーまでは1-3やってん。」どうやら私に向かって話しているようだが、難波の場外馬券売り場から此処に辿り着いたという顛末だろうか。と思いきや「あのヒモ、イエローラインギリギリをしつこく攻めよるさかい」と喋り続けるので、すぐさま競輪帰りだと判った。靴下とカップ酒とが相俟って、人間臭いのか、それとも臭い人間が揃っているのか。こんな映画館でもオールナイトである。暖房の効いた場所で暇を潰せる奴はまだマシだ。入口付近では900円のチケット代も出せない老夫達が、小銭を繰り返し数え直しては「やっぱ380円やわ」と呟いている。寒過ぎて、その吐く息からは白さが失せ、逆に顔色に白さが増している。ここは新世界。まさに人生の敗北という言葉を超越した「新しい世界」に35歳独身の私も居る。
競輪であれば、直前で落車しても、自転車を担ぎ歩いてゴールすれば「敢闘の義務」というルールを果たし、最下位だろうと賞金が手に入る。ところが、カップ酒もロクに握れない連中である。落車したまま動けず、レースを棄権して生きてきたわけだが、元来人生には迷う程の意味なんて無いという当然の事を一番分かっているのはこの爺達なのかもしれない。決して人生の奥義を「知っている」わけではないが「分かっている」。「迷いがあんねん。あんだけの地脚があるくせに、逃げ切るタイミングがいっつもバラバラや。あっこから捲っても屁の突っ張りにもならへんわ。なあ、兄ちゃん。」後ろの爺はまだ私に畳み掛けている。それにしても何か聞き覚えのある声だ。無視するのも疲れてきたので振り返ると、何処かで見たことのある顔だ。そうだった・・・5年前、私が大腸癌で入院していた時に隣のベッドで憎まれ口ばかり叩いては周囲を不快にさせていたあの偏屈な老患者だ。これまた偶然にも退院の日が同じで、鴨川沿いの道すがら、カップ酒を1本だけ一緒に一気に飲み干し、互いの名前を覚えずに別れたあの孤独な老患者だ。あの頃からすでに老い耄れてはいたが、すぐに思い出したのが不思議な程である。当時の面影こそあるものの、まずその格好が違う。今の風采はとても彼とは気付けないほどの変わりぶりだった。病室では競馬中継に夢中だったが、今は競輪に鞍替えしている・・・いやいや、そんなケチな変わりぶりではない。彼は身も心も丸っきり浮浪者になっていたのだ。サンタクロースのように伸びきった髭の先で、半分以下に減ってしまったカップ酒が小刻みに揺れているのを目の当たりにし、私は数時間前のニオイの張本人もこの爺だったことを理解した。
「居酒屋チェーンで営業部長しててん。もう大昔のことやで。今さら東京で働くなんて嫌やけど、若いうちやさかい順応性ゆうんか、そんなんもあってな、勢いゆうかパワーゆうか、そんなんで何でも乗り切れたわ。」・・・物好きな私は、3本目を観ずに映画館を立ち去り、何と爺を角打ちに誘っていた。「そないなゼニは無い」と断られたが、今夜一度限りで私が奢ると告げるや否や、半分溶けた歯を見せて、ニカーっと不気味な微笑みで応じたのだった。その割には漬物と魚肉ソーセージだけで満足のようだった。銚釐の燗酒を吸い込むペースも遥かに私より遅い。5年も経つと、こうも人は崩れゆくものなのだろうか。私は多少のカネを集られるのも覚悟の上で爺と酌み交わしていたのだったが、些か拍子抜けした。
「キタとミナミが世界一の大都会やと思っとったけど、東京はちゃうな。アンタ、赤坂なんて知らへんやろ。氷川坂に檜坂、三分坂に転坂てえ、坂道だらけの街やけど、赤坂っちゅう坂は赤坂駅の近くにあらへん。せや、乃木坂もあるで。乃木希典公や。ハチ公ちゃうで。アレは犬で、地下鉄で3つ離れた渋谷に居はるんや。」私は自分が渋谷育ちであることを隠し、ひたすら聴き入っていた。真実を持ち出しても、爺の話の腰を折ってしまえば、残るのは悔いだけだ。齢35にもなると、そういう道理が弁えられるようになった。「そら、眠らへん街で働くさかい、毎日が昼も夜も分からんくなるくらいの忙しさや。目ェ回るけどな、金回りも良かったでえ。でな、アレ、何やろな、夜勤の休憩中にテレビ視とるとな、『成人向け紙おむつ』とかな『夜間頻尿に効く漢方薬』とかな、そないなCMばっかりやねん。年寄りってな、若い衆には規則正しい生活を強いるくせしてな、実は自分らは夜中じゅう起きとるんやないかってえ思うたけどな、この歳んなって、やっぱり昼夜が逆転するてえ分かったわ。若いうちは忙しゅうて逆転すんねんけど、年寄りは24時間いつでも寝られるさかい逆転すんねや。」・・・私は思い出していた。消灯後の病棟で、ビスケットを夜食代わりに無断で齧りながら『せやから眠れへんねん!』と怒鳴って睡眠薬を要求しては看護師さんを泣かせていた爺の姿を。5年前の彼は、或る意味「元気」だったのだ。
「好きな女が出来てなあ。ちょくちょく来とったクラブのチーママに惚れてもうた。チェーンの居酒屋ゆうてもな、ウチはちょっと料理にこだわった高級店やったさかい、個室の客なんかは上等やったで。み~んな景気のええ頃の話や。チーク踊っとる最中にな、自分のタバコに火い点けて、それを唇の端っこに銜えたまんまワシに頬を付けてな、手ェ使わずに口から口へ渡すてえ、そら、どえらい特技もった女やった。これがホンマの“近づいたらヤケドする女”っちゅうやっちゃ。旦那と別れてワシと再婚するゥ言い始めてな。せやかてワシも恋には未熟なガキやったもんやさかい、連れ添うた男をそない簡単に忘れて入れ替えるなんて出来るんかいなって抵抗感があってん。そんなんを察したんやろな、ふっと目の前から消えてもうたわ。再婚ゆうのはな、たった一度しか相手を選ぶチャンスを与えないっちゅう不自然を正そうとした人間が生み出した制度なんやろな。それやったらな、一度に二人の女を好きになってまうのも自然なことやねんから、再婚だけやのうて重婚も認めてほしいっちゅうねん。」・・・まるで家族法の講義を受けているようだった。私は思い出していた。民法の300日規定の見直し論に女性の春代が反対していたことを。「これって浮気と不倫を助長しちゃうと思わない?夫から逃れられない事と新しい男との子作りとは、全く別の問題じゃないの。生まれた子の戸籍で揉めちゃうような計画性の無い再婚者を擁護するくらいなら、重婚を禁止する法律も一緒に見直すべきだわ。家庭を築く意欲も財力も愛情もある人に対して一夫多妻制も一妻多夫制も認めちゃえば、そのほうが生まれてくる子も幸せよ。」過激だが的を射ていた。そんな彼女も日本の何処かで私ではない男を夫に選び、今頃きっと子育てに熱心なのだろう。
「店のほうは順調やってんけど、経営が息子に代替わりしてからな、おかしくなってん。別の会社に転職してもうたんやないかっちゅう気分やったで、ホンマに。ホレ、電電公社ん時に電柱よじ登って工事ばかりしとった人間がな、NTTになった途端、営業に回されて、間接的に辞めろってえ言われているようなもんやろ、アレ。あんな感じやったわ、知らんけど。店の取り仕切りを殆ど任されとったのに、急にしょうもない雑用ばっかりやらされてな。『改革改善や~』てえ一人で鼻息荒うしたはる若社長の方針に付き合うのが段々アホらしゅうなって、『退職金も要らん!』てえ吐き捨てて店飛び出してもうた。東京にも未練が無うなってな、せやかて地元に帰るっちゅうのも照れ臭うて、切符は新大阪まで買うてんけど、行く当てもなく1つ手前の京都で新幹線降りてもうた。そっからは職こそ転々としたけどなあ、長いこと祇園に居ったで。やけど、65ォ過ぎてからやな、仕事がキツなった。いや、躰だけやのうて、勤め先があかんかってん。ワシも周りもみんな時給900円やし、年収にして150万くらいにはなるんやけど、所得税を源泉徴収せえへんのや。労働保険にも加入せえへん。雇う側も雇われる側も負担になる話やさかい、みんな黙って余計なことは言わへん。それを知ってか知らずかな、サービス残業が長時間でえげつないんやわ。妙な正義感で会社の不払いを公にしてしまえば、自分も年金だけの収入やて偽って税金納めてへんことがバレてまう。お互い弱みを握られて均衡を保ってる言うんかな、哀れなもんや。働き口が無いよりマシやと思うて無理しとったら、癌で入院してもうた。あれが5年くらい前やったやろか。」・・・私が5年前に同室の入院患者だったことにはまだ気付いていない様子である。それにしても、躰は弱り切っているが、口だけは5年前と同じ、否、それ以上に達者だ。
「退院してからは働いてへん。躰のほうが大事や。せやけど、仕事やめたらゼニもあらへん。仕事やめたのに酒やめられへん。歯車が少しずつ狂って、今はこのザマや。ルンペンはやめられへんて言うけどな、コレ、ホンマやて。ルンペン言うてもホームレスちゃうで。この先のオンボロアパートでゴロゴロしとるさかい、その気んなったら遊びに来いや。此間な、駅のトイレに女のホームレスが住み着いていたって話題になったやろ。その汚い婆をやな、人の良すぎる掃除担当のおばちゃんが自分ん家に連れてってな、風呂に入れてやった言うから驚いたわ。せやけど、こういうのをあまり美談にしたらあかん世の中になってもうたな。案の定、おばちゃんの家から色んな物が盗まれててん。ワシ、これ聞いてな、どんなに落ちぶれてもホームレスにだけはならへんて自分に誓うたんや。せや、こうして手ェあげてな、オリンピックの選手宣誓みたいにな。
ああ、もうええわ。十分や。身内でも何でも無いワシにこない親切にしてくれはって、おおきに。」・・・身なりは汚くなったが、それと反比例するように、5年前あれだけ汚かった言動が落ち着き、心なしか性格が穏やかになっている。
爺と別れ、終電に駆け込んでから、私はまた爺の名前を聞き忘れてしまったことを反省していた。だが、住まいの場所は覚えた。名前はそうだな、クリスマスイヴに再会したから、冬野三太でいいだろう。サンタさんと呼ぶのは違和感があるし、フルネームも面倒だから「冬さん」ということで決まりだ。不思議なものだ。束の間の酒を楽しみ、勝手に名前を付けただけだというのに、5年前あれだけ忌み嫌っていた男に対し、今度は親しみが湧いてきて、たった一夜にして「じじい」から「さん付け」へ昇格している。
35歳のクリスマスイヴを新世界の映画館で過ごしたのは、12月24日でも「いつも通りにヤクザ映画を上映していること」と「私のように孤独な男が客の100%を構成していること」の2点をこの目で確かめたかったという、それだけの理由である。冬さんは約40年後の私の姿を映した鏡なのだ。さすがに浮浪者にはなっていないだろうけど、老後の私は、独身で、無職で、ボロ家に住み、特にやりたい趣味も無くなって、たまに気晴らしに出かけるといったら、カップ酒片手に競輪とヤクザ映画、そんな暮らしになるであろうことが容易に想像できる。競輪の展開予想は当たらなくとも、この予想はほぼ100%的中することだろう。新世界は老後に向けた練習の場だ。
「予想が可能ってことは、今からその練習をしておくのも可能ってことね。結構これって幸せなことよね。だって、浮気と不倫の練習をしようとしても、まず結婚が出来なければ不可能だわ。そう考えると、家族法って、勉強する意味はあると思うけど、結婚の予定も、子を持つ予定も、親から財産を相続する予定も、3つとも無いって人にとっては、あまり将来の役には立たない知識かもしれないわね。」「それって、オレのこと?」「フフッ、あなたは私と結婚するわよ」・・・春代の予想の的中率は50%だった。家族の無い人に家族法の知識は役に立たないという予想は当たり、私と結婚するという予想については「私みたいな暗い女と一緒に生活したら不幸になるだけよ」と言って、自らの手で見事に外した。疑いなく春代の暗さは病的だったが、彼女とて好んで病んでいたわけでもなく、私とて明るい昼にはない暗い夜の魅力に恋をしていた。昼夜が逆転したような彼女の表情が懐かしい・・・つづく