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【給食】冷蔵庫 残り物には 福がある

 「あなたが中学生だった時の給食費の一部が未納です。これからお伝えする口座へ直ちに支払って下さい。」電話口の向こうで冷静にアナウンスする男。何とまあストーリーに無理のある“振り込め詐欺”だろうか。「卒業して20年も経つのに、今さら一体どういうことでしょうか?」咄嗟に私は自分の年齢から15を差し引いて男に問う。「そうなんです。ちょうど20年を経過している方々に最後通告といった形で電話を差し上げている次第なんです。」債務不履行の時効が20年で給食費の不払いもこれに該当しますといった出鱈目をあたかも社会的常識であるかのように語る口調に感心しながら、私も悪乗りなのか、それとも内心は焦っているのか、「ええ、給食費の一部だなんて急に言われても、いつの分でいくらとか、そんなこと分かるんですか?」と続けてしまう。実はこういうところが詐欺の巧妙な手口なのだろうか、いつの間にか下らないが譲らない丁丁発止に展開する。「平成○年○月○日の春雨スープと揚げパン、同月○日のカレー、○日のポトフです。東京食糧銀行 中央支店 当座 944994――番号は『キュウショクキュウシ(給食休止)』と覚えて下さい――この口座まで振り込んで下さい。」「そんなバカな事あるはずないでしょう。そもそも給食費は日単位で払うもんじゃない。どうしてそんなに具体的なメニューを特定できるんですか?」「あなたがそこまで仰るなら、払ったという記録を見せて下さい。明細があるはずです。」「明細なんてあったんですか?あったとしても、そんなもの、20年も保管しておくはずがないでしょうが。」「それなら私の指示に従って頂かないと困ります。私も区の教育委員会より委託を受けて徴収しております。追徴金と合わせて10万円になります。」
 私は面白半分なのか、それとも念のためのつもりだったのか、電話のスピーカー機能を使い、会話の途中から隣にいる母にも聞かせていた。母は激怒していた。しかし驚いたのは、すっかり信じ込んだ上で腹を立てていることだった。「未納だと知っていたなら、何で当時すぐに言ってくれなかったのよ。不親切すぎる。それにしても利息が高すぎる。ポトフの値段を吹っ掛けているんじゃないの?」と横で喚き散らしている。取り乱している母の姿がこの電話の内容以上に信じ難かったものの、「払ったという証拠を見せろって、役所はいっつも同じ態度なのね」という科白を耳にした瞬間、間違っているのは私のほうかもしれないという思いに襲われる。あの“宙に浮いた年金”の時がそうだった。「年金の受取額に疑問をお持ちの方はこちらの事務所までお問い合わせ下さい」と言うから、わざわざバスに乗って母と一緒に行ったら、まるで競泳選手のクイックターンのように書類も私たちも窓口を行ったり来たりで散々待たされた挙句、担当者から「納めた記録のご提示が無い限り確認できません」といった回答が平然と返ってきた。世の中の広い海には、社会保険庁のような雑魚も多いのだから「詐欺師と役所は紙一重と心得よ」という教訓なのだろうか。この給食費の10万円もまた紙一重を噛みしめる授業料なのかもしれない。
 
 ・・・雑魚が雑魚に食われそうになっているところで目が覚めた。ひどく腹が減っていた。というよりも給食の夢で腹が減って目が覚めたのだろう。春雨スープに揚げパンは定番だとしても、同月○日のカレーの時はきっとライスだったのだろうな、ポトフの日はどんなパンだったのだろうか、そんなことを考えながら私は冷蔵庫の残り物を確かめていた。無論、ポトフの日がどんなパンだったのかは記録が無いので結論も出なかったが、朝からカレーにするという結論だけは出た。土曜日だ。ゆっくり鍋に火をかける猶予がある。
 カレーは給食でも大人気のメニューだが、食べる側のみならず、作る側にとっても、これほど便利な料理があるだろうか。春雨スープとポトフが年金と共に宙に浮き、私の頭上でくるくると回転しつつも、冷蔵庫の残り物を全部吸収して美味しく仕上げてしまう魔法のメニューを前にしては、あっさりと退散してしまった。ルーさえあれば食材を選ばないのがカレーの魅力だ。ジャガイモが無いからといってスーパーへ出かけるくらいなら、家から同じ距離にある食堂でカレーを食べてしまったほうが手っ取り早い。ジャガイモが無くても作れるところがポトフあたりとは格が違う。外へ買い物に行く必要のないところが春雨スープあたりとは違う。「○○が無ければ物足りない」といったハードルが極めて低いのだ。
 
 鍋の中を適当に掻き回しながら思いを巡らせる。趣味も同じようなものだと先輩が云っていた。自分の中に「○○でないと楽しめない」といった制約条件を設けず、まずは何でも楽しんでみようとする姿勢が人生を美味しく仕上げてしまう魔法なのだと。いかにも尤もらしいことだが、実践してみると意外と奥深い。
 そもそも趣味とは何なのか。本当に心の底から熱中できるもの、没頭できること、生活の一部として浸透していることって、私にとっては何だろう。それを量る基準を教えてくれたのは小春ちゃんだった。そう、連日の残業帰りに遅い夕食も兼ねて通っていたあのスナックの看板娘だ。
 「2日続いても理屈抜きで楽しいと感じられることじゃないかなあ。だってね、どうして人は意識しなくても呼吸できるのか、なぜ手足を動かすときみたいに筋肉に命令しなくても心臓は鼓動を続けるのか、そういうのって理屈で説明しにくいでしょ。理屈も説明も不要で、単純に好きだから呼吸みたいに『やらずにはいられないもの』が趣味なんじゃない?」「僕は毎日でもこの店で飲みながら小春ちゃんと話していたいよ。」「毎度お上手ありがとうございます。でもね。それ、間違ってはいないと思うの。この店で飲みながら私と話すのが趣味って感覚。ヤダ~、自分で言うの恥ずかしい。」酒の導く解放感も相俟って、小春ちゃんを口説くのは常連客にとっては挨拶みたいなものだったけれど、若かった私はちょっと本気になりかけていた。
 「実際にやらなくても、2日連続でやってみることを想像するだけでいいの。この基準をクリアできる物事って案外見つからないものよ。スポーツだったら、男の人ってゴルフでも草野球でも好きよね。それなりに1日中運動するじゃない。翌日、筋肉痛で辛くても、体が自然と動いてしまうっていうか、『再び芝生の上を走り回りたい!』って感覚的に思える?そういう本気の種目って、どれくらいある?音楽でもね、こういうスナックで酒のついでに歌うんじゃなくて、カラオケルームなんかで何時間も熱唱して、喉が潰れても、翌日も行きたいって本気で思える?絵でも写真でもお茶でもお花でもそう、勉強でも何でもそう。『さすがに毎日は疲れるから月1回にしよう』とか『飽きるから、たまには休もう』とかね、どうしてもね、自分で理屈を作っちゃうの。もちろん月に1回でも立派な趣味よ。でも、何て言ったらいいのかなあ、いくら多趣味な人でも、疲れ果てようと何だろうと、理屈抜きで、寝食を忘れてまで没頭できることが最後に残る趣味っていうか、死ぬまで続けていられる本当の趣味なんじゃないかなあって思ったの。
 その点、男の人が理屈抜きで生涯愛せるのって、やっぱ酒と女じゃない?ヤダ~、演歌みた~い。でもホントよ。分かるでしょ。結構ひどい二日酔いでも夕方くらいになるとまあまあ回復してきて、柔らかい水割りくらいから飲み始めちゃう。でも楽しいでしょ。どうせ恥ずかしいことばっかり話してるんだから、おまけで言っちゃうけど、朝まで抱き合ってクタクタになっても、その子を本気で愛している時期だったら、甘いベッドに毎晩でも潜り込みたくなっちゃうでしょ。ヤダ~、ムード歌謡みた~い。
 はい、お待たせしました、カツサンド。毎日カツサンドで飽きないの?あっ、これも毎日!でも『趣味はカツサンドです』なんて聞いたことないわね。」
 ・・・まさしく「趣味」すなわち人生の「味」の領域とは、なかなかどうして容易には広がらないもので、もちろん狭くても一向に構わないのだろうけど、1つも見つからないことだって十分に有り得るのだと知る。例えば、世間には意外にも「三度の飯を惰性的に食べている人」というのが少なくない。巷を歩いていても「あのラーメン屋は旨そうだな」とか「今日は寿司を食べたい気分だな」とかいった欲をあまり抱かない人がいる。そんな人が「あなたの好物は何ですか?」と訊ねられて、答えに窮してしまう様子を稀に見受けることがあるが、あれと似た感覚かもしれない。俗臭芬芬たる人間に満ちた浮世なれども、趣味と呼べるものへの渇望に欠けた者は多く、真正面から「時間と金銭を奪われてでも無我夢中になれるものはありますか?」と訊かれたら、答えに窮してしまうものなのだ。
 そして、これは趣味に限った話でもなさそうだ。この「2日続いても」という基準は、趣味だけでなく、人生において取捨選択の必要なあらゆる局面で役立ちそうな気がしてならないのである。どんなことであっても、まずその日1日は思い切りやってみて、終わった時に「明日も楽しめそうか」と自問自答してみる。それも理屈で熟慮せず、感覚的な判断を重んじる。そうやって「お付き合い程度にすべきこと」や「今回限りでやめておくべきこと」を明確にすることによって、公私を問わず「長続きする範囲」「好きでいられる範囲」「自分のペースを守れる範囲」というものを掴んでいく。この「範囲」を自分自身が「自力」で理解できていないと、自分の範囲を決める主導権を「他力」に委ね過ぎてしまうというか、いつの間にか、明らかに不向きな仕事を断り切れなかったり、調子の良い勧誘に引っ掛かったり、ひいては給食費10万円などという信じられないほど稚拙な詐欺に騙されたりしてしまう気がするのだ。
 
 それは客が私一人だけの日だった。小春ちゃんを制止してママが煙草を買いに出ると、店には二人きり。ママの姿が春雨の向こう側へ消え、ドアベルのカランカランという湿った音と共に雨音も閉じると、小春ちゃんが静かに切り出したのだ。
 「私ね・・・若い頃ね、えっ?今でも若い?毎度お上手ありがとうございます。いやいや、もっと若い頃よ・・・うーん、言いづらいけど・・・風俗で働いてたことがあったの。」突然の告白に動揺したが、彼女の主導権を邪魔すべきでも無く、私は小春ちゃんの話を黙って聴くこととした。
 「もうね、あの業界も不景気よ。早い時間帯は45分6,500円って、ウチのスナックの基本2時間セット料金とそんなに変わらない値段でね、今にして思うと不潔なサービスしてたのよ。真夏なんか汗と唾液でグチャグチャよ。店が閉まった後、他の子と飲みに行くこともあったけど、生ビールの前に歯ブラシを下さいって感覚だった。ああ、汚い話でごめんね。でも、全身リップって言うでしょ。いろいろな所を唇で舐めるのが商売なんけど、それだけじゃなくてね、あれってホントのリップサービスが出来る子ほど稼げるの。『昼間はエステでネイルアートやってるのよ』なんて言いながら爪を立ててお客さんの脇腹を擽ってみたり、『私、普段は土曜出勤で、今日はヘルプなの。ひめたんに逢えてラッキーだね!』って毎日店に来てても偶然のように燥いでみたり、そういう子が売れるの。いや、ウソでもリップサービスをしているうちに何だかこっちもスイッチが入るのよ、不思議と。お店の場所は言えないけど、ひめたんは今も足洗ってないわ。凄いよォ。10分前にわざとタイマーを気にして、お客さんがシャワーを浴びようとすると『違うの。もう1回イケるでしょ。』って自分からオカワリをリクエストするんだから、ツワモノよ。そんな子たちを見ているとね、別にカラダ使わなくても会話で接客できる商売があるじゃんって思えてきたの。いくらお金のためとはいっても、これって長く続けるもんじゃないなって。もともと長く続ける気はなかったんだけどね。悲壮感も無かったし、後悔もしてないけど、ハエみたいな男をエサにするハエ以下の生活に段々飽きてきて、筋肉痛になってもゴルフしたいとか、喉が潰れてもカラオケしたいとか、ほんのちょこっとだけでいいから、そういう感覚で働ける居場所を探していたところに、今のママに出会ったの。その点、スナックは良いわね。ホントにお客さんとゴルフに行けるし、店では歌いたい放題だし。」・・・私が口を噤んでしまったのは、小春ちゃんの見事な哲学に感服し、もはや敬愛に近い情を募らせていたからである。私自身の仕事が、毎日残業をしてまでやりたいことなのか、大いに疑問符の付くものだった。私のサラリーマン生活は、耐え難い苦痛という程でもなかったが、自分では理解しているはずの「長続きする範囲」「好きでいられる範囲」「自分のペースを守れる範囲」を明らかに超えていた。私のほうにこそ悲壮感が漂っていることを垣間見たのか、小春ちゃんが沈黙を破る。
 「でもね、ママの胸に飛び込んで、この店で働いてみて、つくづく感じることがあるの。唇を使って接客する商売はね、お客さんの唇にも大きく左右されるのよね。スナックにしても、キャバクラにしても、風俗でもそうだったけど、今この時間を楽しもうとしているお客さんはね、雰囲気で分かるし、実際に場を盛り上げようとしてくれるし、トークも弾むの。悪いお客さんってね、とにかく暗いし無愛想なの。パネル指名もしないで『今日はハズレだ』なんてガッカリした顔を露骨に見せられると、やっぱり女の子のほうも気乗りしないよ。だから結局はお客のほうも損することになるの。趣味の全くない男の人でも、女は理屈抜きで生涯愛せる趣味だって、私こないだ言ったじゃない。お互い、お上手に唇を使って協力すれば、たとえ偽りの愛だろうと、気持ち良く触れ合えるわけでしょ。商売人のオンナにもそういう優しさやユーモアを示せる男って、尊敬できる部分が多いし、きっと素人の女にもモテるんだろうなあって思っちゃう。・・・鈍感ねえ・・・そうよ、貴方のことよ。」
 私は「毎度お上手ありがとうございます」と切り返した。モノの売買ではなく、ヒトが商品である以上、客側の姿勢と工夫もサービスの価値を高める要素なのだ。これには大いに共感するところがある。とりわけ風俗に行く客というのは、店に入る直前から興奮に襲われる。そしてシステムの説明を受け、料金を支払い、キャストの準備が整うまで控室やホテルで待つ間、その興奮が徐々に増幅していく。それは気持ちの問題なんかではなく、物理的に身体そのものに「前震」が訪れるとでも云おうか、胸が文字通りドキドキと音を立てるかのように高鳴り、血管が文字通りワクワクと湧いた血に急激に伸縮するような感覚である。客ならば誰しもが経験を持つあの感覚を「本震」にまで高めていけば良いだけのことである。自分がプレイを楽しめない原因をキャスト側ばかりに求めているうちは、客として二流だ。45分だろうと2時間だろうと、手に入れた限られた時間は、一期一会の「晩餐会」なのである。パートナーという素材をどのように活かすのかは料理人である客側の腕に懸かっている。いちいち豆腐が無いから麻婆豆腐が作れないなどとは言っていられない。豆腐が無ければ麻婆茄子。茄子も無ければ麻婆春雨。そのあたりまで奥深く食材を探っていくと、パートナーがそっと胡瓜を握っていることに気付いたりする。ここで途端に発想を変えて、せっかく挽肉たっぷりの辛い餡が手元にあるのだから、胡瓜を刻んでジャージャー麵にしてしまうような客でありたいものだ。そうすれば客自身もまさに「美味しい思い」をする。自分のメニューのレパートリーの分だけ、女性の魅力も引き出せるというものではなかろうか。そうやって一夜限りの晩餐が二夜、三夜と重なっていけば、いずれ頼まずとも彼女のほうから豆腐を用意してくれるようになる。ハナから春雨スープしか作れないような客では、論外の三流だ。
 
 ・・・ドアベルと春雨の音を引き連れてママが戻ってきた。「ごめんね~、遅くなって。隣のレストランの御主人からポトフ譲ってもらっちゃった。今日、カツサンドが出来ないから、コレ食べて、ねっ。」男が積み立てた愛情にはこのような利息が付く。元来、私は食欲と性欲を同時並行では満たすことのできない人間で、バニーガールによって大ジョッキやウインナーが提供されるようなビアホールや、テレビでしか視たことはないけれど“ノーパンしゃぶしゃぶ”に類似したような業態が苦手だった。だけど、小股の切れ上がった小春ちゃんの切れ長の目に見つめられながら食すポトフの味は格別だった。私の分を取り分けた後、冷めないうちにママも小春ちゃんも食べる。三人とも、熱いポトフにスプーンを入れては汗をかいている。私は、我が肉体を、彼女の汗と唾液でグチャグチャにされたかった。「匂い」も「臭い」もどちらも「におい」と読むように、好きな女の体液というのは香水に匹敵する。だいたい尿を「聖水」と表現してしまうのだから、男という者に「食材を選ぶ権利」など与えてはならないのだ。
 
 ・・・鍋の中を適当に掻き回しながら思いを巡らせる。舞台は再び土曜日の朝。ルーさえあれば食材を選ばないのがカレーの魅力だ。蓋し、男たる者、心の中には常にカレーを宿すがいい。一夜限りで出会う人がどんな女性であっても、カレー(彼)に成りきって、彼女との晩餐会を楽しむのが流儀である。冷蔵庫の残り物には福がある。否、残り物を福へと転じてしまうのがカレー(彼)最大の強みであり、男としての魅力そのものなのである。
 つい諄く追想を繰り返してしまうが、私の転勤が決まったとき、小春ちゃんから「最後に1回だけ、お客さんとしてじゃなくって、店以外の場所で会わない?」と言われたときは、お世辞でも嬉しかった。小春ちゃんの一言が勧誘でも詐欺でもなかったことは、堂々たる童心とでも称しようか、打ち明けても何の得にもならない自らの過去まで語ってしまうその大胆さが証明している。
 ウーロンハイだけではなく、小春ちゃんにも陶酔していた20代の私。やや年上の彼女は、仕事に忙殺されていたあの頃の未熟な私にとって心の支えだった。本当に仕事に忙殺されていた私は、小春ちゃんからのせっかくのデートの申し出を断腸の思いで断り、泣きながら新幹線に乗り、京都へと旅立った。事実その後、大腸癌を患い、腸を切断したのだが、断腸の思いが本物だったことを証明できたような気がして、妙な自己肯定感があった。2日目でも毎晩でも一緒に居たかった貴女には、どうか今もこの星の何処かで幸せに過ごしていて欲しい。
 小春ちゃんと私との間に芽生えつつあった「小さな春」が、菜種梅雨とも呼ばれる長い春雨に流れて消えていった。旅立つ前、出来ることなら、彼女の濡れ羽色のロングヘアを1本でも頂戴したかった。いや、本音を吐けば、汗も唾液も頂戴したかった。戦時中、出征する兵士が愛する女の髪を御守にしていたという風習を聞いたことがあるが、これが汗や唾液まで欲しがるようでは、もはや変態と隣り合わせである。きっと私は、異性に対する愛慾と趣味の構造が歪曲してしまい、まさに昆虫の成長過程の如く、常人から異常者への「変態」を遂げた生物なのだろう。「行政から障害者としては認定されないが、相対的に浮かび上がる障害の一種のようなもの」言い換えれば「医学的にまだ解明できない何らかの障害」を有しているのだろう。この点については詐欺でも何でもなく信じて疑わない。彼女の云っていた「ハエみたいな男」というのは私のことだったのだ。昆虫の中でもハエ目は完全変態である。しかしながら、夜の蝶々として私の懐へ舞い込んできた小春ちゃん、貴女もチョウ目が完全変態であることをご存知でしょう?私は自らの「障害」を生涯、誇りに思います。障害は欠陥に非ず、個性であり、特長であります故・・・つづく

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