【生物】目に映る 雨垂れの糸 赤い糸
春代と付き合っている頃は、彼女を独占したかったし、彼女にも私を独占してほしかったし、実際に私は彼女に独占されていた。無論お互い人生があり生活があるのだから、全部が全部を束縛するという訳では無いのだけれど、春代には男は私しか見て欲しくなかったし、私も女は春代しか見えなかった。先の「見えない人生」で、母親以外の女性から自分が愛されているという事実が「見える人」と一緒に、どっぷりと「あなたしか見えない世界」に、一瞬だけでもいいから浸りたかったのだ。でも、結局それは本当に「一瞬だけ」で終わった。フラれたのだ。理由はなんと、彼女のほうが私の全部を独占したかったのに、私がその望みに応えられていなかったということだった。諸々の蓄積があるのだろうけど、それに尽きる。どちらもワガママだったということか。彼女のワガママを受け容れ切れなかった私のほうがワガママだったということか。
明けても暮れても相手のことしか考えず、常住坐臥見つめ合いたいと願っていた。こういうのを年齢のせいにしたくは無いけれど、きっと「若かった」のだろうと思う。――今はそんな願いは無い。いや、正確に表現すれば、その願いの炎が燃え上がった時に、冷静に火の勢いを抑えられるようになった。半月くらい目を閉じて「彼女と私は異なる者同士。彼女を好きで好きでたまらないという私の問題と、その彼女が私をどう思っているのかという相手方の気持ちの問題をまず切り離し、あくまでも相手側の問題について自分が悩むのは無駄なんだということに気付けば、苦しみから解放される。その上で、彼女に誠意を尽くすという自分側に属する問題に集中しよう。」という、俗にいう仏の教えを自らに唱えるのだ。その点、長年サラリーマン稼業を続けてきたお蔭様なのか、社内外で出会った数々の“ダメ社員”が、仕事の上では反面教師ながらも、生き様としては或る意味で“お手本”になった。彼らには「顧客や上司の評価が気になる」という承認欲求が無い。煩悩を捨て去ることに成功した者たちは強い。
まあ、何も仰々しく「仏教」を持ち込まずとも、年を重ねてからの恋愛では「他人と分かり合おうとするには煩わしさを伴う。その不自由を少しずつ楽しもう。」といった心構えを自ずと確立するのではなかろうか。急激な接近と濃厚な密着の先に待っているのは窮屈でしかない。周囲を見回したら分かる事ではないか。こんなこと、恋愛における定番の掟だ。おそらく今まで何千年もの間に亘って何千名もの人類によって語られてきたはず。それでも掟を破ってしまうのは、想像力が欠如しているから。そして想像力を失わせるのが「若さ」というものなのだろう。――春代と別れて四半世紀が経ち、現在の私は不自由を少しずつ楽しむ姿勢で春子さんと向き合い、春子さんへの片想いが冷めないよう火加減しつつ生活している。寝ても覚めても心の何処かを彼女が支配し侵蝕し続けるくせに、鎮火しない範囲で炎を弱める。我ながら病的で薄気味悪い48歳の独身中年男だと感じる。まあ、相手も48歳なのだけれど。
「見えない人生」「見える女性」「あなたしか見えない世界」・・・見えるとか見えないとか、そう簡単に云うけれど、生まれてから干支が四周もした今でも未だに「モノが目に見えている」という自然科学的な仕組みが不思議でならない。如何に複雑で精密な機械や制度や社会現象のそれよりも、「人間が生きている」というメカニズムが不思議でならない。どうして私には春子さんが麗しく見えるのか。どうして彼女のグラスにワインを注ぐ私の右手はこうも簡単に動くのか。脳が命令するって、そう簡単に云うけれど、彼女を愛しいと捉える私の脳は一体どんな構造でそうなっているというのか。
「生物体がだな。刺激を受けるとだな。原形質はこれを受け入れて休止状態から活動状態へ移る。これを『興奮』と呼ぶ。興奮は細胞膜に電気的変化が起こることによって生じるんだな。『刺激』『反応』『興奮』という性質は生き物であることの象徴なんだな。」
――そうか、私の興奮は春子さんが私の細胞膜に電気的変化を起こしているのか。何ボルトくらいなのだろうか。DNA先生の生物の授業って、当時は憶えることが多くて嫌だったけれど、あの教室を出て30年経ってから振り返るに、興味を唆るものがある。ヒトが生きている理由までは知れずとも、生きているということの機序についてはそれなりに諒解できる内容だったからである。なお、DNA、この読み方は「ディーエヌエー」では無い。「ダナ」である。授業の途中で昂揚した途端、語尾に「だな。」を頻発するからだ。
「興奮を引き起こす最小の刺激の強さを『限界値』『閾値』と呼ぶ。感覚器が疲労すると、限界値は下がるんだな。刺激の強さが限界値以上であれば、その強さに関係なく、いつでも一定の反応が表れるが、限界値未満であれば反応は全く起こらない。これを『全か無かの法則』『悉無律』と呼ぶ。
刺激を感じ取ることが出来るように特別に分化した器官・細胞あるいは細胞中の一部位を『受容体』と呼ぶ。多細胞生物の場合、これを『感覚器』と呼ぶ。耳に対して音、目に対して光といったように、感覚器に興奮を起こさせることの出来る決まった刺激を『適刺激』と呼ぶ、その反対は?そう『不適刺激』だな。最初に配ったプリントを見ろ。受容体と適刺激の一覧表だ。今から5分やるから覚えろ。」
――クラスNo.1の秀才だった千春さんは、私の隣で相変わらずの余裕綽々。「5分も要らないわ、でも5分もあれば完璧に頭に叩き込んでみせるわ」といった可憐でありつつも隙の無い眼差しをプリントに向けている。その「刺激」の強すぎる熱さを横目に私の胸はすでに大火傷だ。
5分後にミニテストが始まった。【問1】オレたちが熱い物に手を触れて、すぐに手を引っ込めるときの受容体・神経系・作働体はそれぞれ体のどこにあるか?【答1】皮膚の温点(受容体)→求心性神経(感覚神経)→脊髄背根(中枢神経)→脊髄腹根→遠心性神経(運動神経)→筋肉(作働体)。【問2】脊椎動物では主要な感覚器は頭部に集まっている。これは動物にとってどのような点で都合が良いと考えられるか?【答2】感覚中枢の存在する大脳と感覚器との間の距離が短いほうが、外部からの情報が早く大脳に伝わることになり、生命を保持していく上で有利だから都合良い。
――確かに、目も耳も鼻も口も首から上に集合している。なのに、どうしてチンチンは頭とこんなにも離れているのだろうか。敏感過ぎるからということで神が与えた罰だろうか。それでも懲りずに頭から距離のあるチンチンの先端をわざわざ「亀頭」と呼ぶことにしたのは日本人の神に対する抵抗だろうか。否、その逆だろう。英語で亀頭は「Glans」。これはラテン語の「どんぐり」に由来するとかしないとか。団栗は精々ネズミの餌だけど、亀は命を宿した生き物、しかも長寿で縁起が良いとされる神聖な生き物。こんなにもデリケートに感じやすい場所を「亀の頭」と名付けるなんて、日本人の神に対する崇敬の念が滲み出ているではないか。当時の私は千春さんに勃起し、現在の私は春子さんに勃起している。否、正確に言えば、中学時代の私も春子さんと廊下ですれ違っただけで勃起していた。48歳で再会した初恋の彼女に再び勃起する私だが、その反応の強さは経年劣化している。DNAは「感覚器が疲労すると、限界値は下がる」と教えてくれたけど、疲労するほど使うこともなく歳ばかりとってしまったことが偏に悲しい。
「こういう研究、即ち動物が外界に対して示す動き、即ち『行動』の研究だな、これを確立したのは、イギリスのティンバーゲン、オーストリアのフリッシュとローレンツの3人なんだな。1973年のノーベル生理医学賞受賞者だな。オマエたちの生まれる3年前。意外と最近だろ。でもよ、生命の起源を突き止めたのは戦前まで遡るぜ。地球に存在した無機物がだな、放電――雷のことな、それとか紫外線とか熱とかのエネルギーによって相互に反応して有機物が出来てだな、これが複雑化して約35億年前に生命体が形成されたんだ。これを唱えたのが1936年、ソ連のオパーリン。でもよ、雷が無機物を有機物にするって言われても解んねえだろ?これを究明したのが戦後、1953年、アメリカのミラーの実験なんだな。原始大気中に放電してアミノ酸の形成がなされることを確認したんだな。まずNH₃、CH₄、H₂の混合気体の中を通って循環する水蒸気の装置を作る。次に蒸気ガスの混合物を高エネルギーの電気火花にあてて、さらに濃縮して液体とし、再び温めて水蒸気にする。このガスやら電気火花やらを通す過程を1週間繰り返すと、装置の中の濃縮した水が濃い赤色の懸濁状になった。っちゅうことで、水の中にアミノ酸の混合物が含まれていることを発見したという訳なんだな。
凄えだろ。自分たちの祖先がどうやって生まれたのかを人間自身が理解したのって、今からたった40年前のことなんだぜ。これぞ人間が唯一未完成の生物体だと謂われている証じゃねえか。人間以外の生き物はみんな生まれた時点で完成品だからな。人間より立派な生き様を示している。完成品はだな、『なぜ自分たちは生きているのか』なんて考えないで生きている。完成品だから考える必要が無い。ヒトに湧くウジだって、ヒトが未完成であることを不憫に思ったハエからのプレゼントなのかもしれねえぜ。」
――えっ?ハエ?ウジって、自然に湧くもんじゃないの?――30年以上前の私って、こんなにもバカだったのだ。そんな私の愚かさにDNAが雷を落とす。
「人類はだな、長~い間、細菌やウジみたいなもんは自然に湧いているものだと本気で思っていたんだ。それくらい人間って未完成な生き物なんだよ。アリストテレスだって、ウナギは泥や湿った土から偶然に発生すると考えていたんだぜ。この考え方をようやく否定できたのは1668年、イタリアのレディの実験。イタリアって凄えだろ。でもよ、日本じゃ、この頃に『生類憐れみの令』が発されているから、すでに人間が未完成であることに気付いていたとしたら日本も凄えな。」
――綱吉かあ。お母さんは八百屋の娘から大奥の最高権力者にまで上り詰めた“お玉さん”こと桂昌院。玉の輿の語源だ。高校を卒業して約四半世紀後、宝塚歌劇団の『元禄バロックロック』を観たとき、赤穂浪士と吉良を無血和解させた見事な裁きっぷりに感激し、犬公方の見方が変わった。ユーモア溢れるフィクションと知っていても『忠臣蔵』と同じくらい没入した。伝統の花組誕生百周年を飾るに相応しい挑戦作だったと思う。
「レディは腐った肉からハエのウジが自然発生するという考え方に疑問を抱いたんだな。試しに肉片を瓶に入れて観察したところ、3日目にウジが湧いた。そこで、これはハエが瓶の中に入り込んで卵を産み付けたためではないかと仮説を立てたんだな。今にしてみると常識だけどな、この仮説を考えられる人間がなかなか当時は居なかったんだろうな。この仮説に基づいて、肉片を瓶に入れて布で蓋をする『処理区』と、蓋をしない『対照区』とを比較する実験を開始する。もちろん処理区にはウジが湧かなかった、っちゅう事実によって仮説は確証されたという訳だな。
けどな、レディ以降も細菌のような下等生物は自然発生するって考え方は根強く残ったんだ。この時点で或る意味ヒトも下等生物なんだけどな。で、スパランツァーニって賢い奴が、この人もイタリアなんだけどな、肉汁を煮沸してフラスコの中に完全に密封した状態では細菌が発生しないことを確かめたんだ。それでもだな、『新鮮な空気がフラスコの中に無いから自然発生することが出来なかっただけだ』って反論する奴も居て、この反論を否定するまでには至らなかったんだ。ここで登場したのがフランスのパスツールなんだな。空気があっても細菌が入らなければ細菌は増えないのではないかって仮説を立ててだな、密閉せずに細菌の侵入を防ぐ『白鳥の首』と呼ばれるフラスコを考案したんだ。『処理区』が首の長いフラスコ、『対照区』が首を根元で切ったフラスコ。当然、処理区では細菌が発生しないという結果を得て、微生物は自然発生するものでは無いっていう学説を確立したんだな。」
――私の恋心も自然発生したものでは無さそうなのは明らかだ。煮る必要も焼く必要も無い。春子さんという空気に触れただけで自ら焦がれるこの命。ましてやその白肌と黒髪が目に焼き付けば、私は目を白黒させてこの女の従順な飼い犬と化す。
「では、話を戻す。今日はオマエたちに感覚器の中の1つ目、『視覚』だけ教えて授業を終わることとする。いいか、目が見えるって凄え有難いことなんだぜ。視覚は光の刺激によって起こる感覚だな。視覚器には様々な種類がある。2枚目のプリントを見ろ。①赤い色素を有する点状の細胞器官。これが『眼点』。明暗だけを感じる最も簡単なもので、代表選手はミドリムシかな。②同じく明暗だけを感じるものでも視細胞が皮膚に散在しているのが『散在視器』。代表選手はミミズとウニかな。③視細胞が頭部の1ヶ所に集まってだな、その周囲に黒い色素細胞が集まってだな、杯状を成すと、明暗に加えて光の方向を感じるようになる。これが『色素杯眼』。ナメクジウオなんかがコレ。④バッタの『単眼』も仕組みは似たようなもの。⑤単眼が多数集まると『複眼』になってモザイク的に物体の像を写すようになる。トンボとかエビとかカニが代表。で、ヒトは何かって謂うと⑥『カメラ眼』なんだな。その名の通り、虹彩で光を絞り、レンズを通じて網膜に映す仕組みはカメラそのもの。表皮の変化した眼がイカとかタコとか。脳の一部が変化した眼がタイとかイヌとかヒトとか。ああ、カメもそうだ。カメはカメラって憶えておけ。」
――亀頭の一部が変化してカメラ眼が出来たとしたら、千春さんの秘密の内部も可視化するってことか。イカやタコよりもエビやカニ、エビやカニよりもウニ、高い寿司ネタほど目の機能は低い。こりゃ魚市場の仲買人さんに「お目が高い」だなんて言うと却って混乱するなあ。斯様な想像ばかりを働かせ、黒板に集中しない16歳の私は、紛れも無い下等生物だった。授業が「視紅(ロドプシン)」に入った辺りで挫折したのである。「光に当たるとレチナールと蛋白質の『視黄』に分解され、その際に発生したエネルギーで棒細胞が興奮する」とか「さらに光に当てるとビタミンAと蛋白質の『視白』に変わって棒細胞の感度が低下するが、暗所では白から紅への反応も進むし、ATPからのエネルギー供給によって黄から紅への反応も進む」とかいった詳しい解説を聴くに連れて、すぐ隣の千春さんを目にしても私の“棒細胞”は萎えるばかりであった。
「暗い所から急に明るい所へ出た時、眩しく感じるけど、数分後には目が慣れるだろ。これがロドプシンの分解による『明順応』だな。逆に明るい所から急に暗い所へ入った時、はじめは何も見えないけど、数分後には目が慣れるだろ。これがロドプシンの再合成による『暗順応』だな。
でだ、この明暗調節と共に大切なのが遠近調節なんだな。これは正常よりも異常眼を知ると分かりやすい。まず『近視眼』、これはレンズの膨らみの度が大き過ぎる場合と、眼球の奥行きが長過ぎる場合とに起こり、像が網膜の前方に結ぶ眼のことな。従って、凹レンズで補正することとなる。『遠視眼』がその逆。像が網膜の後方に結ぶから、凸レンズで補正する。角膜の球面に凹凸があって光の屈折が正しく行われないのが『乱視』な。これは特殊な歪み補正レンズで補正する。まあ、この辺はメガネを掛けてる奴なら簡単に理解できるだろ。
で、レンズの弾力が年齢と共に衰えて、レンズの膨らみを調節することが出来なくなるのが『老眼』。近い物体をハッキリ見ることが出来ない、つまり像が網膜の後方に結ぶ故、近くを見る時だけ凸レンズで補正する。まあ、今は若いオマエたちもそのうち分かるようになるよ。」
――私はすっかり中年となった今でも眼鏡のお世話にならず、裸のままの眼で左右とも視力1.5を維持している。だが、眼以外の躰は確実に老化している。就職して転勤後、すっかり京都の住民となった今、西陣の八百屋に生まれた桂昌院が再興し、玉の輿神社とも称される今宮神社の近くの病院まで3ヶ月に一度は自転車を走らせては、痛風の薬を処方してもらっている生活だ。否、よくよく考えると眼も患っているのかもしれない。高校時分の元気すら無いくせに、中学時分の初恋の人の前では盲目になる。東京まで4ヶ月に一度は逢いに行く。こんなにも春子さんが眩しいのに、一向に私の眼は明順応してくれない。こんなにも春子さんが遠いのに、私には見えないはずの彼女が見える。
彼女が人妻というのは嘘だったのか、旦那どころか彼氏でもないのに、偶には彼女の母上様ともご一緒するようになった。母親以外の人を「お母さん」とごく自然に呼んだのは、人生初の経験だった。まさかとは思うが、彼女と結婚するような運びとなって、マスオさんのように「お母さん」のコトバを毎日繰り返すようになれば、すでに実の母を亡くしている私にとって、春子さんの母さんが実の母親代わりとなるに違いない。そんなことを想像していた。出征兵士でもあるまいに新幹線のホームまで見送ってくれる母娘の姿が、関ケ原くらいまで消えることなく視覚を占拠する。これは、蕩けるような気持ちの中で1秒も経たぬうちに岐阜羽島を通過していたといった感覚とも換言できよう。
「網膜上に結ばれた物体の像は、その物体つまり光が無くなっても、約0.1秒間は感覚として残っている。これが『残像』ってやつな。光の刺激が止んでからも視神経の興奮が刹那の間は続くために起こるんだ。例えば、雨垂れが糸のように見えるとか、テレビを消した後もまだ映像の余韻が残っているとか、そういうやつな。
物体のまわりに色々な物が組み合わさると、その物体の形や色を見誤る。これが『錯覚』ってやつな。例えば横縞柄の衣服を着ると実際より太って見られるとか、そういうやつな。
で、外部からの刺激が与えられないにもかかわらず大脳に起こる感覚が『幻覚』だな。薬物中毒者や精神異常者に多いけれど、それ以外でも例えば高熱が出ると見られる症状だな。」
――そうか、私って、彼女にお熱なんだ。恥ずかしいわ、この歳にもなって。ハートは射貫かれて血だらけだけど、せめて眼の健康だけでも支えてやるとするか。というわけで、夕食はアスタキサンチン豊富な海老とルテイン豊富なホウレン草の炒め物にでもしよう。ああ、両方とも五条のスーパーまで行かないと手に入らないな。会社まで歩いて行けるから四条烏丸のマンションを選んだのだけど、生活圏としては予想以上に不便で仕方ない。都会過ぎて何も無いのである。百貨店はあるけれど、駐輪場が面倒臭い上、売り場が広すぎるのも難点。同じ自転車なら五条まで飛ばすのが得策だ。
ペダルを漕ぐ道すがら、小雨が降り始める。雨垂れが糸のように見える前にさっさと買い物を済ませたい私は、頼山陽が作ったと謂われる俗謡を口遊む。「京の五条の糸屋の娘 姉は十七妹は十五 諸国諸大名は弓矢で殺す 糸屋の娘は眼で殺す」――惚れ惚れする起承転結である。「漢文」の好々爺先生が絶句の解説で教えてくれたものだが、全部を諳んじているのはこの詩くらいのものだ・・・つづく
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