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【放課後】ダメなのは 努力が足りない それホント?(その6)~努力の戦争利用~

 就職できない、結婚できない、といったその人の人生の「人並みよりも劣る部分」については、決して無駄ではない努力をした結果、その人にはどうすることもできない運命だったのかもしれないのだから、その人に対して「あなたの人生がダメなのは、努力が足りないからだ」的な言い方をするのは軽率であり、あまりにも想像力に欠けている。――就職できた勝者、結婚できた勝者というのは、決してこの心構えを忘却してはならない。それが共に人生を闘って、結果的に敗者となってしまった人への敬意と礼節である。

 例えば、生活保護や就労支援を引き合いに出して「経済的に自立できないのは本人の怠惰が招いた結果だ」「就職できないのは本人のやる気と努力が足りないのだ」などと論い、平気で自己責任を語るような人たちを目にすると、その狭量ぶりにほとほと愛想が尽きる。それが本当に怠惰と努力不足に起因するのか否かを論理的に立証できない以上、一見正しいことかのように論理展開すること自体が狡猾なやり方であり、社会的弱者に対する偏見を含んでいる。「私たちは努力してきた」というのはその人の勝手であり、その努力を誇りに思うのは“平和利用”だが、「だからお前も努力しろ」と他人に押し付けるのは“戦争利用”であり、やがて平和な生活を脅かす形で自分に跳ね返ってくる。
 「就職は結婚のようなもの。いつでも良い会社との出会いのチャンスはある。」「結婚なんてタイミング。パートナーは思いがけずに見つかるもの。」・・・そういうことを軽々しく口にする人が勝者の論理で社会を構築すると、それが過剰な格差を生み、格差は反乱を生む。この反乱に乗じて他国が介入してきたら、内紛が戦争へ転じてドロ沼化する。守るべきものが多い勝者たちの求める安定は、皮肉なことに自分たちの手によって失われるのである。守るべきものが少ない敗者たちは、積年の妬みを爆発させるかの如く革命を賛美する。
 ちょっと大袈裟なのは分かっているが、“平和維持活動”というのは大袈裟に言い続けて丁度良いくらいなのである。例えば、戦争も核兵器も原発も無くならないと私は思っている。だって、すでに核兵器を持っている国から「私は持っているけど、あなたは持たないでください」と言われるほど理不尽なことはない。こんなこと中学生でも分かる。従って、無くすのが不可能なのであれば、それを取り扱う人間の「軽々しさ」と「想像力の欠如」を抑制するくらいしか平和を維持する方法が見当たらないのである。そして抑制するための警鐘は大袈裟に鳴らさないと人間の煩悩には到底響かない。
 
 世の中は強者と弱者で成り立っている。強者ばかりを掻き集めたところで、その中で新たな強弱は生まれる。だから格差はゼロには出来ないことを認識し、過剰にしないことを確認すればよい。心得るべきなのは、弱者は自ら望んで弱者となったわけではない以上、おそらく強者の側の手によってしか弱者は生まれないということだ。弱者という概念は強者の登場と絶えずセットなのであって、それだけでも「強者は自らに謙虚な精神を宿すべき」とすることの根拠に十分ではなかろうか。
 無論、ある事では強者が、ある事では弱者であったりもする。私も「就活」では強者だったが「婚活」では弱者だった。よって、人生のあらゆる場面に際し、自分がそこでは強者なのか弱者なのかを見定めようとする心構えを確立し、自分が強者の立場だと判断した場合は軽々しい言動を慎む。自分が弱者の立場だと判断しても、社会を支えている一員であることを矜恃し、強者に依存する言動を慎む。お互いに「常に真心をもって他人に接する」という意識を大切にしたい。その上で、強者が謙虚に生きることは比較的容易だが、弱者が清貧を保つことはなかなか難しいと捉えるのが自然である。従って、この意識はやはり強者の側により強く求めるべきものなのである。
 何気ない日常のさりげない意識だが、揺るぎなく徹底した意識――暮らしの中にこの意識を持つことが、人として高尚たる生き方というものであり、己の弱い心に立ち向かい、身の程を知ることに成功した真(まこと)の人生だと信じて生きていきたい。これが私の「就活」と「婚活」を原料として醸し出した「自分への戒め」である。
 
 報道でしか見たことのない海外の難民キャンプとか、そういうところで支援の手を差し伸べられるような人たちは凄いと思う。そこまでいかなくても、国内の災害ボランティアで汗を流せるような人たちも凄いと思う。そこまでいかなくても、各地の困っている人々や恵まれない子供たちへ向けて、折に触れて寄付ができるような人たちも凄いと思う。ここまで積極的になれる人ばかりではないし、それはそれで止むを得ないだろう。
 凡人は「自分」と「自分に関わる範囲」と「せいぜいその先の範囲」くらいまでしか自分の関心の目が及ばず、それで精一杯だ。だから奉仕と貢献の精神に満ち溢れていなくてもよい。日頃の自分の目が及ぶ範囲内にも「自分より恵まれない者」「自分より弱い者」「戦いに敗れた者」がいるだろう。せめて身の周りのそういう人たちにちょっとだけ真心をもつ。同情や哀れみといった上からの目線ではなく、ただ真心をもつ。具体的な行動で救ってやろうと恩に着せるのでもなく、ただ真心をもつだけでいい。それが自分の身を助けることにもなると思えば、無理をしなくても真心は込み上げてくるだろう。実はその真心が世界平和の第一歩のような気がしているのだ。
 
 真心をもつのが自分たちの生きている社会の“平和維持活動”・・・実はそう感じるネタは、学校よりもサラリーマンになってからのほうが、もっとリアルな形で身近に寝転がっている。学校にいた頃は、勉強が大変だったけど、その反面、何だかんだと成績以外では人に優劣を付けない平和な世界だったのである。会社員になると、週休2日で朝9時に出勤すれば定期昇給は確保できる生活になるから、自分の最低限やるべきことは学校ほど大変ではない。しかしその反面、何だかんだと成績以外でも人に優劣を付けざるを得ないから、内紛の発生しやすい世界なのである。
 それはある日の居酒屋トークだった。妙なことからダメ社員の話題となったのだが、この話がもう尽きないのである。「大事な書類だからコピーを忘れないでね」と頼まれて、シュレッダーと間違えちゃった“破壊女王”の話。受話器を取りながら電卓を叩き「この電話、つながらないなあ」とボヤく“天然記念物”の話。業務に使用するシステムの画面をデスクトップの壁紙に設定して、仕事のフリをしながら半日以上はボーっとしている“マネキンおじさん”の話。・・・信じられないかもしれないが、世間でそれなりの評価を得ている大企業にもこういうダメ社員が必ず一定数は存在するのである。しかし彼らの存在も「給料泥棒」とまでは言い切れないところに会社組織やサラリーマン人生の妙味がある・・・つづく

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