見出し画像

【保健体育】銀輪の 進むる先に 道しるべ

 酒――この地球上において唯一、万国共通で合法的と認められた魔物である。この魔物を取り扱う売人は逞しい。それも地方の有力酒販店ともなれば気性は荒い。コンビニでもスーパーでも当たり前のように酒が買えるこの時代、頑固一徹、あえて酒屋という伝統的な商いで稼いでいるわけだから、そこら辺の軟な連中とは格が違う。
 私が群馬県の営業をしていた新入社員の時分、この親仁はきっと趣味で熊か何かと戦っていてもおかしくなかろうと思う程、豪勇で野性的なニオイに満ちた酒屋の社長さんが前橋に居た。想像するだけならまだしも、実際に店で散弾銃を見つけ、「ああ、これから熊狩りに行くんさ」と言われたときにはさすがに肝を冷やした。「大丈夫だよ。普段はそんな場所に置いてないし、二重に安全装置を掛けているから。猟銃の規制は物凄く厳しいだぃね。あっ、そうだ、オメエさんもきないか?」「熊狩りですか?」「そんなもん素人は連れてけないよ。朝のうちに急ぐ分だけ配達を済ませてから、昼に山へ出かけるんさ。もう薄暮になったら熊が動き出すから危険。オメエさん、商談に来たんだぃね。今日はそんなわけで忙しいから、新商品の売り込みならトラックの中で聞く。」私はスーツのままP函を担ぎ、助手席に飛び乗った。
 
 「スポーツ選手は実力が出せなくなったら、要するに勝てなくなったら引退の時だっていう分かりやすさがあるさねぇ。みんな、ママチャリに毛ェ生えたくらいの自転車しか乗ったことがないくせに、いざレースが始まると、やれ仕掛けが早いだの、やれマークが弱いだの、好き勝手に解説者気取りだんべ。町内会の役員も引き受けたことのない奴が政治家の言動にケチをつけるのと同じ感覚だぃね。まあ、投票券を買ってくれているお客さん、投票権を握って納税してくれている国民、どっちも注目してくれてるうちが華だがね。だけんど、ブレーキの付いてないピストレーサーにペダル固定して跨いでみ。まともにバンクを走れるだけでも、選ばれし者にしか与えられない才能なんだってことが分かる。ましてS級で活躍しようと思ったら、そりゃこの広い世の中で国会議員になるよりも少ない人数を争うってことさねぇ。」・・・この社長さん、かつて競輪選手だった経歴の持ち主である。当時の私は営業成績を上げることにも懸命だったが、この親仁の脈絡なき世間話にも耽溺していて、今朝はこの配達トラックの車中から何か少しでも人生訓に近いものを吸収しようとしていたのだった。
 「だけんど、他の職業じゃ“引き際”っていうのが難しい。スポーツみたいに勝ち負けがハッキリしてるわけじゃないからなあ。そうなると、大切なのは、自分で引退の基準を決められること。そんで、どんな結論を出そうにも賛否は付き物だから、他人の批評に左右されないだけの信念が自分の側に在るかどうかだんべ。オレは給料日や祭りの日でなくても千代田町じゅうのスナックが毎晩繁盛するようになったら、それを見届けながら隠居する。
 いいか、重い酒が運べなくなったら引退するとか、強い酒が飲めなくなったら引退するとか、そういう基準じゃないところがポイントなんさ。○○が出来なくなったら引退っていうのはダメ。それは競輪ってスポーツでイヤってほど経験したわけだから、別の仕事でも同じ基準で動く必要なんか、まあず無い。オメエさんも、潰れる心配のこれっぽっちも無い会社にせっかく入ったんだから、『これを成し遂げたら、もう会社を辞めよう』ってもんを新入社員の今から持ってみ。わざわざ他人に宣言しなくていい。自分の心の中でいい。“勤続”よりも寧ろ“退職”に対して積極的なイメージを描いてる人間のほうが、大企業でも中小零細でも、実はサラリーマンとして長続きするし、組織に貢献するし、美しく会社を去っていくような気がするんさ。」・・・狭いアーケードをくるくる回ったかと思うと、急に国道17号へ抜け、空っ風を吹き下ろし始めた真っ青な赤城山がフロントガラスに広がる。
 
 「出来が悪くてな、親父には『無理に酒屋を継がなくていいから、自分の力でメシを食えるものを何か見つけろ』と言われた。正論だけんど高校生には酷な話だんべ。そんで、勉強はつまらなかったけんど、ガキの時分から自転車で遠くへ行くのだけは夢中だったことに気付いたんさ。
 おかげで不良にもならずに済んだよ。不良どもは気楽だがね。卒業式で『学校生活から解放された』なんてタバコふかしたところで、最初っから奴らは自由だぃね。学校ん中に居る時から『大人たちの束縛』が何だとか、平然と小生意気な主張ができるほど自由なご身分だんべ。オレは自分が落ちこぼれだったくせに、昔からもともと不良には同情しないタイプだったんさ。不良が道を踏み外すのは自分の欲に弱いからだんべ。そこに同情して彼らを許しちまうと、道を踏み外さず自分の欲を我慢してきた人らが報われない。その子が不良になっちまった理由をよく『生い立ち』だの『家庭環境』だの『いじめ』だのって論うけんど、それはグレることの正当な理由にちっともならない。そんなこと言ったら、ウチの娘のダンナなんか病気で片腕失っちまってるんだけんど、障害者ってビックリするほど健気に生きてるさ。まあ、義理の息子じゃ親バカ半分かもしれないけんど、やっぱり不良は自分に甘いだけだがね。不良どもはすぐに“根性試し”とか口にするけんど、自分の欲に弱いっていう生まれつきの障害を乗り越えようともしない“根性無し”は救ってやる気にもならないさ。オレは落ちこぼれだったけんど、不良にだけはなりたくなかったから、家業も継がないし大学も行かないなら競輪学校の門を叩くって決めたんだぃね。だいたい16、17、18の年頃にもなって退屈そうに憂き世を睨みつけても、骨の無い奴は“卒業式”がそのまま“失業式”になっちまうだけのことさねぇ。悲しいかな田舎の高校生って手を焼く不良が多いんさ。こんな調子だから東京にバカにされるんだぃね。
 競輪学校に合格した時は泣いて喜んでいた親父だったけんど、そんな感情とは真逆に、オレに向かって掛けた言葉には戒めが込められていたねえ。『人の本領を発揮させる原動力は真っ直ぐな態度。これからお前がこの世界でどんなに賞金を手にしても、世間はお前自身を評価しているのではなくて、自転車を漕ぐのが速いっていうお前のごく一部の才能を評価しているのみ。その後の祝勝会や昇級はお前の実力なんかではなくて、単なる社会現象と受け止めなさい。勝って嬉しいときほど、周囲の方々の働きぶりに目を配れ。それが学校の勉強は大嫌いだったお前のこれからの社会勉強。』って、なっからおっかなくて、なっからカッコイイ親父だったよ。
 デビューしてから何年か苦労した後、競争得点がぐんぐん伸びていって、FⅡレースだと決勝の常連だった時期もあったんさ。初めて優勝した時は舞い上がったけんど、自分が賞を獲得したことより、周りの人らの支えに涙が止まらなかった。親父から釘を刺されたことを思い出したんだな。感謝を忘れず、勝利に浮かれず、すぐに襟を正して練習に打ち込んだ。それでもA級1班が最高位だった。その先のランクになかなか上がれないどころか、待っていたのは2班に下がる試練だったよ。
 『試練はそれを乗り越えられる者にしか与えられない』とか何とか言って自分を鼓舞しようにも、人間、心底めげた時はどうしても気持ちの切り替えが上手くいかないもんさねぇ。それを見事に切り替えてくれたのが親父だった。完全に全盛期を過ぎて引退を決めたオレに、いつも通り𠮟咤激励するのかと思いきや『もう十分にお前は社会勉強をした。怪我もせずに続けてこられただけでも幸せじゃないか。そうだんべえ。自転車の他にやることが見つからないんだったら、酒屋を手伝ってくれよ。店先の掃除から覚えていけばいい。同じバンクでも銀行は手ごわいぞ。貸し渋られないように経営しないと、それこそ自転車操業だぃね。』って、オレの背中を押してくれたんさ。
 ヒトっていうのは、ホントにちょっとしたことで気分が変わる。気分がノッている時とそうでない時の“波”というか“流れ”みたいなもんがあって、そんなものレース展開と同じように些細なきっかけで変わってしまうんさ。人間なんて元来“気分屋”なんだ。今もし気分がノッていない心理状況であったとて、数秒後には不幸の流れが幸へと転じてしまうかもしれないじゃないか、って思い込めるかどうかが肝心。オレは親父と自分を信じた。そこからは必死で酒の勉強をしたさ。もう信じられないほど昔のことだけんどね。やっぱり人間、幸せばかりじゃ成長しない。不幸が無いと過去を顧みようとしない。亡くなった親父の遺影に掌を合わせることもしない。幸せは、幸せ以外には何も齎さないし、その幸せに至った過程まで消しちまうから、忘れた頃に不幸が訪れるくらいで丁度いい。」・・・国道沿いに突如として洒落た煉瓦造りの建物が現れ、それは巨大なピザ窯を模したものだった。このイタリアンレストランにワインを配達するのが朝のミッションだったわけである。
 「ランチでもグラスワインがちょくちょく出るって言うのよ。飲酒運転じゃねえかって疑ってたら、目の前がバス停だんべ。口の肥えた年寄り衆が優雅に飲んで帰るもんだから、あんまり安い銘柄を置くわけにいかないんさって、オーナーシェフがウチの店へ相談に来たのが数年前だったかなあ。十分オレも年寄りだけんど、驚いたねえ。こういう情報が儲けになるんだがね。おかげさんで先代から受け継いだ看板汚さねえように頑張ってるけんど、酒を売ろうとしている時に『このお酒は造りにこだわりがあって香りに特徴が…』なんてセールストークをいくら繰り広げたところで、この田舎で、この不況じゃ、儲かりそうな情報を集めない限り、ちっとも埒が明かないよ。そうだそうだ、今なあ、グリーンドームの開催日は飲食を割引にするって企画を考えてて、賛同してくれる料飲店さんを募ってるんさ。なっ、競輪選手も酒販店経営者も“仕掛け”が大事だんべ。」・・・一度はスポーツでメシを食っていたプロの男である。この豪勇で野性的なニオイに満ちた社長さん、しかし繊細で知性的なニオイにも満ちている社長さんが、熊に銃口を向けている姿を私は想像していた。
 
 「今日行く山はな、ここから車で1時間ばかりの所なんだけんど、麓に小さい温泉宿があるんさ。それがどうやら『プロ厳選!都会からも近い秘湯』とか言って、テレビか何かに紹介されちまってから、天狗んなって一気に改装したんさ。最近じゃ1泊の料金が、ウチの娘夫婦が住んでる県庁前のマンションの家賃と同じだって知った時、こりゃ詐欺だんべって笑ったよ。あの藪ん中の露天風呂だったら熊が出ても不思議じゃないなあ。草津にも、四万にも、伊香保にも、贅沢な旅館がいっぱい建ってるんだから、そこで寛いでりゃいいもんを、高いカネ払って裸で熊に遭遇だなんて目も当てられないさねぇ。」・・・帰り道のフロントガラスには、空っ風の吹き下ろしを受けても堅牢な群馬県庁がチョコウエハースを立てたように日本一の高さを誇っていた。
 「こないだウチのヤツが仏壇の蝋燭にいつものマッチじゃなくてライターで火ィ点けてたんだけんど、そのライターに書いてあったのがラブホテルの名前なんだよ。まさか、あの婆さんに浮気する元気が残ってるはずないだんべ。でも、この歳んなっても、女房は女房さ。こっちが気ィ遣いながら、それとなく探りを入れたらな、そりゃまあ、あっけらかんと『そうなのよ、これ、便利よ~。秋ちゃんのお部屋にいくつもあったの~。』って、いろんなラブホテルのライターを出してきやがったんさ。すぐさま娘を呼びつけてな、『母ちゃんに発覚する前に、間男だけはやめなさい!』って怒鳴り散らしたら、『父ちゃんの勘違いだ』って哂うんさ。アイツら、恋人気分を高めたいとか何とか言って、週末になると夫婦でわざわざ伊勢崎とか藤岡のラブホテルに出かけてやがるんさ。それ聞いて『どうせ泊まるなら、プロ厳選!都会からも近い秘湯の宿にでも行け!』って、また怒鳴り散らすだぃね。すると、娘が一言『父ちゃん、あの宿、1泊2食でウチの月の家賃と一緒だよ』っていうオチだったわけよ。」・・・配達のトラックを降りると、社長さんは「朝からオレに付き合ってくれたお礼」と言って、新商品を10ケースも注文してくれた。
 
 私は深々とお辞儀して社長さんと別れると、出張初日から新商品が売れたご褒美に、その足で県庁32階の展望台に上ってみた。上野国の中心地の街並みを一望できるが、その中に年寄りが昼からワインを楽しむ巨大なピザ窯を見つけることは叶わなかった。まさかこの15年後にイタリアがフランスを追い抜いてワイン生産量のトップに君臨するとは想像もしていなかった。
 北の眼下には、社長さんの汗と涙が滲んだグリーンドームがマカロンのように鎮座している。フランス菓子のマカロンもその発祥はイタリアと聞いたことがある。そういえばウエハースの本場もイタリアだ。そのまま目線を水平にすれば、澄み渡った冬空に上毛三山の揃い踏み――右にさっきまで仰いでいた赤城山・扇の要に榛名山・左に日本三大奇景の1つに数えられる妙義山――という壮大なパノラマだが、まさかこの3年前に妙義山の向こう側まで新幹線が開通するとは想像もしていなかった。且つ、この2年後に私がこの新幹線に乗って信州への転勤を命じられるとは想像もしていなかった。
 南の眼下には、無量無辺と称すにふさわしい関東平野の本当にド真ん中を利根川が流れていることが鳥瞰で確認できる。その流れの悠然たる様子を眺めるに、これが坂東太郎の異名まで有する暴れ川だとはまるで想像もできない。
 社長さんの仰せの通り、気分や幸せの流れなんて、利根川の流れのように些細なきっかけで変わってしまう。山育ちの春代は、この視界の中に入っている埼玉北部の草叢まで私と遠出して、関東平野のだだっ広さを感じるのが好きだった。まさかこの半年前に彼女から別れを告げられるとは想像もしていなかった。結局、私には、ワイン生産量も新幹線開通も信州転勤も何もかも想像できないことを自覚し、この視線の遥か先にある東京で、春代が今どんな本を読み、何を考えているのだろう、と想像することも諦めてしまった・・・つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?