なぜ考えられないのか?

理想や夢、好きなことやりたいこと
それらを
小説や漫画、アニメや映画、音楽や芸術、
日々の世界の動き、
ネット・SNSに留まらずリアルでの
人間の綾模様...etc
↑をサンプルにして、
見つけようというのが
今の私のメインテーマだ。

そのために現在地で、
そこへ行くための準備をしたい。
まずは荷物の確認である。
不良品や忘れ物がないかのチェック。
今回は言葉

ド下手だよね

一般的に、
知識や思考は言葉なくして
成立しない。
というか、言葉がなくなれば
我々は終了する。あらゆる意味で。

そんな絶対的に
重要であるはずの言葉だが、
私はこの言葉の使い方がド下手だ。

ただ、それは私だけではない。
昨今では
さまざまな場面で使える話し方の、
コミュニケーションの仕方の本が
たくさん売られている。
需要があるからだ。
欲望と不安がそこにあるからだ。

また、
読解力・国語力関連の本も多いだろう。
国語力の低下が叫ばれる。
1ヶ月間に本を1冊たりとも
読まない人も珍しくない。
しゃべっている話ならわかるが、
本となると読めないという人も多い。

”話す・聴く”
”読み・書き”

これらが上手くいってないと思う人が多いのだ。
いやまぁ私もそうなんだが。

これが本題

ようやく本題に入る。
前書きが長すぎひんか?

何が言いたいかというと、
識読できないのも
読解力がないのも
理解力がないのも
創造性がないのも
論理が苦手なのも
コミュニケーション能力が低いのも

雑に言えば、
ものを
話すべきときに漢字を使って
ものを
読むべきときにひらがなを使っているからだ。

違う言葉

会話で使う言葉と、
文章で使う言葉は違うものだ。
話し言葉(口語文)と、
書き言葉(文語文)である。

話し言葉のメインは耳と口、ひらがなと修辞的。
書き言葉のメインは目と手、漢字と論理性
それぞれの言葉は、
同じ文字が使われているだけの
別言語と思ったほうがいいだろう。

苦しいときは、流れに逆らっているときだ。
本来的な形に沿っていないとき、反発を味わう。
話すときに、漢字と論理性。
読むときに、ひらがなと修辞的。
前者は堅苦しい。
後者は読みづらい。
そしてどちらも理解しづらい。

前者は、
校長先生の話や
意識高い系のカタカナ語での会話を
思い浮かべると、
理解できるかもしれない。
あるいは、
話が盛り上がらない人の話し方とかも
そうだろう。

自分の世界観だけで、
話している人と言っていいかもしれない。

後者は簡単だ。
学術書や会社の報告書が
すべてすべて、
ひらがなで表示されていたら
悪夢だろう。

だが、本を読むときは
そうなっている。
心の中で音読しているのなら、
表語文字を
音で理解しようとしている
それは規格が適切ではない。
だから理解が追いつかない。
漢字中心なのだから、
目で理解するのが一番だ。

誤訳

だが、規格とは外れるように
順序立てて論理的に話すこと、
話しているようにわかりやすく、
もっと平坦に書くこと。
こういうことが求められている。

話し言葉と書き言葉は、
別言語だ。
通じ合うためには、
”翻訳”しなければならない。
たとえ自分の言葉でも。

怠ることは、
土台が歪んだまま
ものを考えるということだ。
それはいずれ致命的な結末につながる。
いや、今か。まぁいい。

言語の回線が混線している。
絡まり合っているものは、
ときほぐしたい。

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