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八重の百合の季節

八重の百合を見ると思い出さずにはいられない

ほりべえが生きるのはもう無理だと思っていた頃のこと……



珍しい八重の百合を見つけた。

玄関に飾られた百合は、

出かけるときも、

帰ってきたときも、

いつでも私に生きる力をくれた。

生 と 死|ほりべえ (note.com)

ある朝、百合に挨拶しようと玄関に行くと、

散っていた。

同上


同上

ALS患者が致死薬を与えられて死亡した。

死を待つだけの生は、

どれ程の辛さであろう。

ご冥福をお祈り致します。

                                合掌

同上


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何のお導きか
ほりべえがリハビリの為に越して来た土地では『花』のご縁を頂いている

いつも通る道にあるお寺
ほりべえが「花爺様」と呼ぶ山
最初に引き寄せられるように脚を踏み入れた時に、ふと右を見た

そこには

聖霊の碑

時々お花を手向けさせて頂いている

八重の百合

横浜大空襲(よこはまだいくうしゅう、Bombing of Yokohama)は、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心地域に対して行われた無差別爆撃である。 B-29爆撃機 517機・P-51戦闘機 101機による焼夷弾攻撃で、約8千から1万名の死者を出した

Wikipedia

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半身麻痺のほりべえが転ぶ度に骨折をし家で暮らせない時、高齢者施設に入れて頂いた事がある

そこでも不思議な巡り合わせを頂いた

(途中抜粋)

朝、I子さんの所に行き
「おはようございます。
今日も無事お会いできましたね。
今日はI子さんにプレゼントがあるんです。」
と言って、
折鶴を貼って飾りにしたカードをお渡しした。

『○○I子様
これからも志を高く頑張ります。
どうもありがとうございました。
ほりべえ』

I子さんに今この時に出会えたことの証として、
恐らく現世でお会い出来るのもあと5日であろう。

I子さんと私は手を握り合い、
この出会いに感謝し合ったのだ。

~まろやかに生きる~という話|ほりべえ (note.com)

(途中抜粋)

令和二年九月二日(水)

~まろやかに生きる~という話(その弐)

「南に向いて立つでしょう。
そうすると、左から陽が昇るから陽。
反対に身体の右側に陽が沈むでしょう。
だから陰。
この世界は陰と陽で出来ているの。
そして、それは丸い球体
つまり、地球のことなのよね。」

そうなのだ。
この世はまさしく
陰と陽。

~まろやかに生きる~という話(その弐)|ほりべえ (note.com)


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I子さんが、ほりべえだけにそっと話して下さった

(途中抜粋)

2020年(令和2年)8月30日(日) 
ほりべえの日記より

 今日は、入所者のI子さんの話を書こうと思う。
私がここでI子さんの貴重な体験の話を伺うことが出来たのは、運命なのだ。

 I子さんに初めて出会ったのは、2020年(令和2年)8月29日(土)の午後、おやつを頂いた後、少し経ってからなので3時30分頃2階東である。
偶然通りかかって声を掛けて下さったのである。
( ※と日記には書いてあるが、詳しくは車椅子でI子さんの前を通った時に、テーブルの前に座っているI子さんにお声を掛けて頂いたのである。I子さんはほぼ同じ所にいらっしゃる。一人では動けないから。)

 『I子さんがまだ15歳で一人秋田から横浜のおじさんを頼って出て来ておじさんと義理のおばさんの家から学校に通っていた所、ある日おじさんに赤紙が来たと。
 赤紙というのは長男には来ない。次男、三男以下に来ると。
 赤紙が来た人は、一度本籍のある所へ帰り、そこから出兵しなければならない。
 だから、おじさんは一度本籍地の秋田に帰らなければならず、その時I子さんも一緒に帰るように言われたけれど、また、あの勉強も出来ないで毎日馬糞を集めさせられるようなのはごめんだ。横浜へ行ってもっと勉強したい。高い志を持って横浜に来たんだ!との思いで横浜に残った』

 というお話を昨日伺いました。

 まだ15歳の女の子が一人どうやって生きて行ったのか。
 高い志をどう保ったのかを聞かせて下さい。

 「あなたよく覚えているわね。高い志を持って一人横浜に残った後の話は誰にも言っていないのよ。あまりにも酷たらしい話だから。
こんな話、誰も聞いてくれないし。」

 「そうなんですね。でも、私は聞きたいです。
 その頃の話を是非私達若い人間に伝えて下さい。I子さん達が実際に体験されたことをI子さんの口から聞いたことを、私忘れませんし、私も、もっと若い人達に語り継ぐ責任があります」と伝えると、

 I子さんの普段キリッとした顔が急に崩れ、涙を流しながら、

「ありがとう。私と同じ体験をした人達も、もう話すべきでないと言っているけれど、話を聞きたいと言ってくれる人にこうして出会えるなんて」

 「きっとこれは運命なのだと思います」と私は言って、I子さんの目をじっと見つめた。
 
 見つめ合ううちに、私の瞳も濡れるのであるが、その後語られたI子さんの話は、想像を絶する内容であり、私の瞳は濡れることさえ忘れたのである。

散りての花はいかがかざさめ ~その②~|ほりべえ (note.com)

(途中抜粋)

2020年(令和2年)8月30日(日)13:00~ 某高齢者施設 2階東にて

I子さんの話

 おじさんが召兵されて秋田に行ってしまったから、私は義理のおばさんと保土ケ谷の家に住んでいました。

 ある日私が尋常高等小学校から帰ってくるとおばさんがいない。すると隣の家のおばさんが来て「(義理の)おばさんは一人で先に疎開したわよ」と教えてくれた。えっ?!朝まで何も言っていなかったのに。と思った。
 その時の気持ちはね、何だか裏切られたような子ども心にも何とも言えないような感じ。後から来るように言われたけれど、切符はどうだったのかなぁ?あったのかなかったのか判らない。

 でも、横浜で一人で生きて行こう!と決心して、その後寮のある所に入ったの。(えっ?寮って何処の寮ですか?)

 山下町にある警友病院の寮。昼間は働いて夜は資格を取る為に勉強して、三年でやっと資格を取ったの。(ということは、ナースの資格を取って警友病院で働いていたんですね?)
 
 そう、結婚するまで働いて最後は婦長にまでなったのよ。

 ここから先は、自分でも思い出すと… (と言って身を縮めブルッとするが話し続けてくれる)

 病院で人が死ぬと

 どうなると思う?

 次から次へと人が死んで、死んだ人を霊安室に運んで。
 死んだ人から蛆が湧くの。蛆の湧いた人の上にまた人を重ねて、蛆虫だらけになっていた。
 その死体を今度は病院の隣の畑に穴を掘って燃やして、また次の人を運んでその上に乗せて燃やしたの。

 名前も何も判らない人達。
 女しかいないから重くて大変だった。
 死体を焼いた場所は畑だから、その隣では野菜を植えて育ててた。
 水洗トイレも壊れてしまったので糞尿も畑に捨てた。

 夜、港に近い病院から保土ケ谷の方を見ると、焼夷弾が落とされて、街が燃え上がっていた。

 焼夷弾って判る?
 逆さまの花火みたいなの。

 地面に落ちる前にパァーッと花火みたいに広がってから、バラバラと家に落ちて、木造の家だからひとたまりも無いの。アッという間に焔が広がって燃え上がる。

 そんなのを見ているとね、何だか神経がおかしくなっちゃってね、
「わぁー綺麗だなぁ」ってまるで花火を見ているみたいな気持ちになるの。

 街が燃え上がっているのに、「わぁ。綺麗だなぁ」って

 後ね、もっと酷い話があって。

 酷い火傷を負った子どもを連れたお母さん達がね、ガーゼ一枚を盗んで奪い合うの。ガーゼには蠅が卵を産んでね。卵はアッという間に蛆になるから、子ども達の火傷の上のガーゼから蛆が湧くの。

 蛆だらけのガーゼを剥がそうとしても蛆で張り付いちゃって、子ども達は痛くて痛くてウワンウワン泣いていた。

 三年程前に元警友病院の横を車で通ったんだけど、畑も名前も判らない人達を燃やした場所も、もうコンクリートになっていたわ。

(I子さんの話はまだ続く…)

散りての花はいかがかざさめ|ほりべえ (note.com)


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お陰様でほりべえは今も生きている





ここまでお読み下さいまして、誠にありがとうございます。m(__)m
今、ここに、こうして生を頂いていることに感謝して♥

to be continued


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