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日本人研究⑥日本人の心と行動パターン


前回の記事では日本人に目立っている他者依存・集団依存の傾向について述べた。

一番最初の記事において、日本人の自我の弱さについて指摘したが、日本人が自我不安定感を和らげるために生まれる心と行動パターンをある程度まとめておきたい。これは日本人の人間関係、行動や心理を理解する上で重要である。



1、自我の位置付け

自我不安定感を軽くするために、まず第一に集団依存の傾向を生む。

自分の依存集団(ウチ)に属さない人たち(ソト)との交流、あるいは同じ依存集団内部の、目上・目下との関係、上司・部下の関係、先輩・後輩の関係、親分・子分の関係、同い年の仲間同士の関係など、他者から見られる自分について、「自」と「他」の相互が、いつも安定していることが必要なのである。

だからこそ日本では「場」が何よりも重視され、「他者依存」傾向をもたらす。

日本人は「身内」(≒相互制)や「秩序」を重んじるのだ。


『タテ社会の人間関係』(ロング・ベストセラー)の著書で有名な故・中根千枝氏は、日本社会を「タテの理論」という独自な視点で読み解く試みをされておられた。この書では、日本人が「個」より「場」を重視すること、日本人の人間関係は「タテ」が特徴的である、云々。

日本人の人間関係を「タテ理論」でモデル化したという意味でとても素晴らしい功績だと思える。しかし、残念ながら、なぜ日本人の人間関係にいわゆる「タテ」が生まれるかについて、その背景に徹底的な分析・考察がなく、物足らなかった感は否めない。恐らく社会人類学という学問分野の限界なのであろう。


日本人の自我不安定感は、自己評価に対して、他者評価によるほうが重く見られて、その結果、主体的自我(主我≒自分はこうしたい)が消極的になることに基づいている。

つまり、他人の眼を気にして、自分が気おくれして、弱気になるのである。(自意識過剰・世間体・体面意識のつよさ)


したがって、自我不安定感は、対人関係において、他者と自分との相互の位置づけが「未規定」のときもっとも強くなるのである。

日本人が個人でみると、とりわけ初対面では控えめで遠慮がちだが、匿名SNSや集団になると人が変わったように積極的になると言われるのはこのためである。


「自」と「他」の相互の地位、役割の関係がはっきりすれば、なるべく不安を感じずに済む。

しかもこれが一時的、一回的な出会いではなく、これからも未来に持続する人間関係であるとすれば、一層、人間関係の「自」「他」の相互の位置関係を安定しておく必要が生まれる。

そのために日本人が今日の生活のなかで、儀礼的な慣習として強迫的に守っている、とりわけ初対面同士の敬語、礼儀作法、あいさつ、名刺交換、贈り物などの行動が必要になる。


「自」「他」の相互関係を「ある枠内」にあてはまることで「異質さ」を避けて、それによって対人関係から生じる自我不安定感を軽くすることができる。

また『タテ社会の人間関係』やそのほか色々な分野の人からすでに指摘されているように、日本人は生活のさまざまな面で、「序列」とか「ランキング」を好んでいる。

(ひま部・Yay🤟という若者SNSで研究リサーチした限り、そのようだ)

それは自分他人とを問わず生活のなかで、自分があるいはだれかが、色々な点で、どのように評価されて、その評価にしたがってどのような位置付なのかを知りたがるということである。

そのような格付け傾向は、けっきょく、他人、世間、社会からどう見られているかという他者評価の序列に関心を持つことであり、それは日本人のランキング好みの傾向にもあらわれる。

自分と他人が生活のさまざまな面でどのような位置づけをされているかということに熱心な傾向を日本人に特有な「格付け意識」と呼んでおこう。

日本人の格付け意識でもっとも独特で代表的なものは、外国人とくに西欧人に対する根強い劣等感とあこがれがあり、それが江戸鎖国時代から明治時代にかけてはじまり、今日までつづく外国崇拝、西欧崇拝あるいは「白人コンプレックス」と呼ばれる意識となって残っている。

今日の若者文化である「韓流ブーム」もその流れの一つであると言える。(流行集団への一体化と外国崇拝)



2、定型化と完全主義

うえにあげた格付けは、序列意識によって支えられているけれど、それとならび日本人に特有な「型の意識」「秩序の意識」が見られる。

型の意識、秩序の意識は生活のあらゆる面で、行動をある一定の型にそっておこない、自我を安定させようとする心理が働くのである。

それは定型化(パターン思考)の追究であり、型を守ることに価値を置く生活意識である。


そのためなにごとも慣習や慣行、前例にしたがってとどこおりなく型どおりに、枠のなかで決まったことをおこなう儀礼的な行動が重んじられる。

そこでは先にあげた礼儀作法、年中行事が守れて、敬語や若者のボケ・ツッコミ的なノリ文化に代表される形式的なコミュニケーションの型が大切にされる。


定型化はきまった型どおりに行動する流行、風俗、レジャーなどをふくむライフ・スタイルにまで及び、とりわけ今日の情報化社会では、生活や意識の画一化が、ライフ・スタイルと生活意識の定型化をうながす。

日本人の定型化・パターン思考欲求は、洗練されたモノマネとモノマネの徹底した追究から、日本人に独特の「模倣の天才」傾向を生む。

このことは日本人の勤勉さや生真面目さを証明する一つのよい例である。



3、強迫的傾向

「型」の修得をして、それを守るために、日本人特有の「強迫的」とも言える行動傾向が見られる。それは強迫神経症に見られる状態よりも広い意味であり、特に「強迫的」という表現をしたのである。

ほぼ決まった時間・場所にきちんと型を守ってシステムが動く交通インフラが一つの例だ。



4、完全主義

たとえば強迫神経症の場合には、無意識に潜んでいる欲求が、その人を何か特定の行為をさせずにはいられない強迫行為と、考えることをやめようとしてもある観念が頭に浮かんできて、それを消すことができない強迫観念に悩まされる。不潔恐怖症の人では、自分の手が外出中に汚れたという観念がつきまとい、その強迫観念から、長い時間かけて消毒液で洗うことを繰り返さずにはいられない状態に陥ることもある。

それに対して、ここで強迫的傾向と呼んだのは、やはり自分の内面から湧き上がってくる、ある欲求を満足させるために行動を進めながら、満足感に達することなく、どこまでもその努力を持続する傾向である。

それは努力による達成によって完全な結果をえようとする「完全主義」の傾向である。

日常ことばで、凝り性と言われる人は、この強迫的傾向が強い人である。そういう人が才能に恵まれていれば、自分の技術を洗練させて、完全さを求めて、そのために自分を犠牲にしても、物事に没頭できる。

そのような極端な場合でなくても、凝り性の人は、その人なりに自分に対する期待水準、理想水準が高いために、それを達成するための努力をしつづけざにはいられない。それはときに自分の職業上の仕事であり、またときには自分が生きがいとしている趣味の場合もある。



5、完全主義

このような強迫的傾向は、前述したような日本人の自我構造、精神の弱さと結びつく面がある。

日本人は主我が弱く自己主張が欠けると指摘したが、その自己主張が他人に向けられ他人に要求・攻撃的である代わりに、要求・攻撃が自分に向けられて、しかも常にその努力をし続けるという強迫的傾向が生まれる。


そこでは他人に厳しく要求することで対人関係とのあいだで対立や摩擦をおこすかわりに、自分自身を要求・期待の対象とすることで他者との対立をできるだけ避けようとする、無意識の欲求にしたがっているのである。

日本人の強迫的傾向は、また一面で、消極的な、他者への配慮や優しさだけではなく、完全への努力を持続する。

それは自己テストでもあり、努力している自分を自分なりに評価して安心感を高められる。



6、多様性と融通性

このような自と他の位置付け、格付け、定型化は、日本人の行動や思考を、「一定の枠のなか」におさめようとする努力のあらわれでもある。

それらをまとめて日本的な強迫傾向といってもいい。

ところが一方でそのような傾向と一見矛盾するような、つまり、日本人は「柔軟性」に欠けると言われるが、その一方で、日本人の行動傾向として、ある種の多様性、多面性、あいまい性、融通性の傾向も認められる。


たとえば歴史的に日本文化が、東洋と西洋の外国文化を「いいとこどり的なつまみ食い」で受け入れてきた多様性のある文化であることはいうまではもないだろう。 

とりわけ明治以降は、和洋折衷の二重生活がつづけられて、そかに生活意識の二元性が対応している。

しかしそれだけではない。

日本人の生活、文化は、宗教面からだけみても多様であり、しかもそれらは互いに対立するのではなく、共存、混在が許されている。

(ハロウィン・クリスマス・除夜の鐘・初詣・結婚は教会で、葬式は仏教、七五三、和洋中の食事、外国語の混ざった日本語など)

また日本人は「何を考えているのかよくわからない」とか「はっきりしない」と外国人からよく指摘されるが、日本人の心理の一面として、物事をあいまいにしておき、臨機応変に融通をきかせる、あいまい性と融通性の傾向も目立っている。


あいまい性は、どれか一つに決めないでおく傾向だ。

融通性は、状況、つまり、「場」に同調して、その場その場に応じて行動することであり、「その場主義」「場当たり主義」の傾向をうむ。



7、さいご

それでは「枠のなかで生きる」、型の追究とあいまいさや融通性を認めるとは、矛盾する傾向だろうか。一方が、自我不安定感を軽くすることを目指す傾向だとすると、もう一方は、自我を不安定なままにおくことを認める傾向だと言える。

この二つの傾向が日本人の心理の中にどのようなかたちでむすびついているのか、後日、改めて問題としてみたい。

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