法螺貝談義(第56話)
法螺貝は少しく失った身体を取り戻してくれます。
現代は数字や数値を見て、ものや身体を判断する時代でもあります。
これはいかに人が感覚を無視するようになったかという事です。
体重も血圧も「適正」があるそうですが「適正な体重」や「適正な血圧」って、正解がそもそもあるのかが疑問です。
極端は別として、体重も本人が快適と思うところがあるはず。
骨の太さも、筋肉量も、太りやすさも、心臓の強さも何もかも人によって違います。
「人間とはこうである」とわかっているつもりになっているだけ。
自分のことですらよく分からないのに・・・。
そもそも「正解(正常)の人間像」なんてものがあるわけでもない。
現実は教科書通りに説明のつく人間がいるわけではなく、みなバラバラの価値観や癖や身体を持った個人がいるだけです。
体調ですら何かで測るが、体調は不調であれば自分の感覚で本来は気付けるはず。
法螺貝に取り組むことは身体における感覚を取り戻してくれます。
うまくいかなかったり、なぜこの音が出ないのかと観察すれば意識が身体の感覚に向き始めます。
想像以上にいろんな情報を身体が受け取っていることにも改めて気付きます。
良い悪いは別として、時代と共に世界中で都市化が進み、明るさも温度も音も匂いもなんでも管理する時代。
普段から一定の明るさ、一定の室内温度、歩く地面も舗装された中で生活しています。
これは人間が五感からの変化を感じにくくなって感覚が鈍くなり、アタマで何もかもやる時代。
特に自然の少ない大都会に住んでると、コンクリートばかりで季節感がないので、一年中景色に変化がありません。
人は想定外を嫌いますから、思い通りにならないという意味での外在的な自然を嫌うのでしょうか。
ある程度の管理下、想定内でないと耐えられないくらい短気にもなってる気がします。
昔の人は変化を「無常観」として受け入れていました。
受け入れていたというよりは、そうせざるを得ないから結果的に変化を受け入れる精神的土壌が作られていったのでしょうか。
仏教でも「一切皆苦」と教えます。
これはわかりやすく言えば「全てのものは〈自分の〉都合や思い通りにならない」という意味合いです。
自分が今置かれている状況を思えば誰しも実感できると思います。
自分の顔も身長も完全な思い通りではないでしょうし、出会う人も出来事も何もかもが想定外です。
今法螺貝に取り組まれている人も年々増えています。
そのほとんどの方が、まさか自分が法螺貝を吹くことになる事もおそらく想定外だったと思います。
1週間後の天気も、来年の春はどんなことで悩むのかも想定できません。
自然を眺めれば、太陽の日照り、山川の音、土や木の匂いは我々の意図とは関係なしに動いたり、あったりします。
そういう中では感覚をよく拾います。
身体もひんやりしている部分もあれば少し暖かい部分とか様々です。
自分というのは環境とは関係ないと思っていますが違います。
五感も意識も周りの環境との関係で面白いくらいコロコロ変わっています。
人にもよりますが、晴れの日は爽やかな気分になったり、雨が降れば頭痛がしたり気持ちもどんよりしたり。
つまり環境の様々が瞬間の自分を構成していると気付けます。
観察すれば、いかに感覚を無視していたかが実感できます。
法螺貝は練習の中でのつまづきの道中で、身体の感覚に目が向き、それにより自己と環境世界との関係性を再構築してくれます。
自分という存在は自然や環境と別で独立していると思いがちですが、感覚に目を向けると実は身体とぶっ続きにあるという事実に法螺貝は立ち還らせてくれたりもします。
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