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法螺貝談義(第64話・おしまい)

※少し長いです。

なんとなくの呟きのつもりで始めて、続けていたらあっという間に第64話になりました。(ちなみに今回のnoteでの記事は以前の改訂・推敲版です)

コロナ禍でリアルでの法螺貝の講義が出来ない状況が続き、何か法螺貝に関することを発信したいなと思ったのがきっかけでした。

実際の講義では目の前での状況や前後の流れの文脈で、相手によって言葉を選び、お話させて頂くので最初の頃は言葉で具体的なことを表現するのは躊躇いもありました。

ただ逆に、こうして文章にするというアタマを通す作業のお蔭で、実際の現場ではあまり言ってこなかった部分を言語化し、整理できた点は自分としては得るものは多くありました。

現場の瞬間の言葉ではない「文章の言葉」はある面で一方的なところがあります。

それは読んでいる時に語り手(書き手)が不在ということ。
時間差コミュニケーションであり、そして受け手が様々というSNSの前提があるので、使う言葉もある程度は選ばざるを得ません。

実際は、現場での相互のやりとり次第で言葉は変わります。

そして言葉(文章)の宿命として、ある物事を述べる事で明確化すると同時に、それが限定化されてしまったり、場合によっては絶対化されて受け取られる可能性が出てくる点です。

だから仏教では時として「沈黙(無記)」を方便として使う事があります。

でも、そんなこと言い出したら何も出来ませんから、楽しく続けてみることにしました。

今までの記事の内容は今時点の私が思った見解や解釈であり、大好きな法螺貝を含めた目線から眺めた事を生意気ながらつぶやいたものです。

まず前提として法螺貝の事や身体の感覚的な解釈や表現は人によって違います。

あの先生はこう言ってたけど、こっちの先生は違う事言ってたという事もあるかと思います。

これは日常でもよく起こる風景です。

言葉というのは半分は受け取る側に委ねられている面もあります。

言葉はその時の気分や体調、状態や状況によっても受け取り方が変わりますし、どの〈視座〉で見るかによって言葉そのものが正解にも不正解にもなり得ます。

「リンゴ」と言う言葉を受けとっても、私の思うリンゴと、隣の人の思うリンゴには相違も出てきます。

若い頃言われて気付かなかった事も、歳を重ねていく内に気付く事もあります。

もし「あなたにとって『豊か』とは?」と100人に聞いたら、100人バラバラの答え(表現)になるはずですし、「お母さんってどんな人?」って聞いたら兄弟の数だけお母さん像が出てくると思います。

我々は何かを人に伝える時はどうしても自己の表現になり、しかもその表現や答えですら時と共に変化します。

街中で自分とコーディネートが全く同じ人を見た事がありませんし、自然界でも同じ石ころや木も葉っぱもありません。

人は皆違って良いし、前提としてむしろ違ってあたりまえです。

人の価値観や考え方がみな同じだと逆に違和感でしかありません。

それがリアリティな実際の世界です。

演繹的、帰納的な思索であろうと、そして個別蓄積的な身体知であろうとそれらには限界があります。

そして、我々の生活はスマートフォンやインターネットなどの科学技術に囲まれていますが、その内部のロジックの詳細を説明出来る人はほぼいないでしょう。

機械に話しかけると反応したり、なぜタッチパネルを指でなぞると画面が動くのか、蛍光灯の仕組み、空調の内部の仕組みなど、日常の生活で当たり前に使っているこれらのモノのメカニズムや詳細は実のところ、私も含めてほとんどの人が知らないのではないでしょうか。

身の回りには知らない事で溢れかえっています。

だからこそ、わたし個人としては、法螺貝に関してはいろんな先達の話や、仲間の話、時には違う流派の方のお話も積極的に聞かれることをお勧めしています。

また、法螺貝以外の分野を知ることで法螺貝に役立つ事もたくさんあると思います。

その一つ一つの表現や解釈を否定せずに、色んな人の話の聞き、表現や違いを吟味することが大切です。

むしろ表現が人によって違うからこそ、発見があり面白いと言うものです。

言葉を試金石として、あとは自らが実践し「自分はどう感じるのか」を大事にしてほしいと思います。

これが「自灯明(じとうみょう)」という重要な教えです。

他者の表現を助けとし、実践によって自己の血肉に変えていくことが大事です。

増支部経典の「カーラーマ経」という経典には仏道の基本的態度が示されています。

これは、見解をただ鵜呑みにするのではなく、実際に身を以て自身で確認する態度を勧めていますし、「聞思修」の三慧は今でも仏道の基本です。

これは情報過多で〈実際〉を無視しがちな現代にも通じる大事な態度です。

現代は他人やGoogleなどのインターネットで調べた主観的な意見や、偏っている可能性のある言葉をそのまま鵜呑みにしたり、信じ込むことが起きていてややこしくなっています。

テクノロジーの進化で情報量の増加により、人は本能的に都合の良い情報だけを選り好みするようになるのかもしれません。

ある程度の選り好みがないと逆に判断できないくらいに情報が多くなったのも背景としてあると思います。

これは人である誰しも少なからずは持っている一面で、どうしても偏ってしまうのが人という存在。

偏らないことが良いのではなく、偏りに気づいてどうするかが重要です。

さらに「見取見(けんしゅけん)」という煩悩があります。

これは、ある見解に執着し、自らの見解だけを最高とし、他の見解を誤りとする煩悩の事です。

これも誰しもあるからこそ、これまでの固定概念から一度離れオープンマインドで知ろうとする子供のような心は、法螺貝以外の事でも全てにおいて重要だと思います。

〈概念と感覚〉の違いは、身体を通すと実際に結構隔たりがあります。

思っていたのと実際に違う事はよくあることです。

辛いものは甘いとは感じません。

実際を離れて、アタマや言葉や概念ばかりで見る癖があると、辛いものを甘いと解釈してしまいます

アタマでは味わえませんから、アタマばかりではなく実践を通して自己の身体感覚を含んだ視点を大事にしてほしいと思います

仏道や修験道は普段無視されがちな身体の感覚を取り戻してくれます。

最後の最後は自己の身心を頼みとし、実践してわかっていく事が重要で、これが「身に付く」と言うことです。

この言葉の中に身体の文字が入っているのは、おそらく先人は身体の重要性がわかっていたのだと思います。

だから作法と言って、まずは動作から徹底的に教えることを仏道でも大事にしています。

その過程の中で取り巻く環境や縁にも目が向くきっかけとなると思います。

「修験心鑑書」の最後にも『他の珍宝を数うるよりは、早く衣裏の宝珠を知るべきものなり』と示されています。

この宝珠とは仏性のことで、身と心を通して自身に既に内在(本来具足)する金胎理智不二(金剛界・心〈識大〉と胎蔵界・身体〈五大〉)の曼荼羅の精髄である「阿字門」に是非とも触れて頂けたらと思います。

今回少しでも法螺貝はもちろんのこと、仏道や修験道といった先人の遺してきた身心の両面に目を向けてきた「道」に興味を持ってもらえたら嬉いですし、それぞれ自分にしかない法螺貝道中を楽しんでほしいと思います。

私も法螺貝の事でまだまだ知らない事もたくさんありますので、法螺貝について新しく教えて頂いたことや、気がついたことがあれば発信しようと思います。

長くなりましたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

※ちなみに法螺貝を吹く事を専門的には「法螺貝を立てる(立螺)」と言いますが、いろんな方が見られるところでの発信でしたので「?」となるかなと思い、あえて「吹く」という表現をしておりました。

YouTube「立螺」


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