法螺貝談義(第58話)
現代では何かを学ぶ際に身体面に触れない事がよくあります。
これは身体が置き去りになり重要性もわからなくなった時代とも言えるかもしれません。
人は体感して納得する生き物です。
思い返すとわかりますが、趣味は趣味になる前に体験が先にあるはずです。
やってみて意外と楽しかったからそれが趣味になったんだと思います。
だから「学ぶ」という事において、意識的なアプローチ〈だけ〉というのはなかなか難しいです。
逆もそうで身体的アプローチ〈だけ〉も同じことです。
もともと心と身体は不可分で別々ではありません。
バランスの問題ですが、意識で意識を変えようとする「調える」ではなく、先ずは身体を調える事で自ずと「調う」という方向と言いますか、結果的にそうなるみたいな感覚。
近年は身体面の大事さが改めて見直されている時代になっていると思います。
日本や世界での瞑想ブームも、アタマに傾きすぎた反動でしょうか。
昔は身体の重要性を言っていました。
修験道も仏道(仏教)も基本的に修行は身体を通して行います。
「道」と付くものは身体が基本になります。
華道、茶道、香道も身体動作や感覚に注意を置きます。
密教においては身・口・意の三密瑜伽や、禅でも身心一如と言います。
「瑜伽(ゆが)」という言葉がありますが、これはヨーガ(ヨガ)の音写のことで「結合」「繋ぐ」ということを指します。
では何を繋ぐのか?
それは、身体と心です。
現代人は普段はこれらがバラバラになりがちで、アタマばっかりを酷使して、身体に還る時間が極端に少ない生活をしています。
身体と心は本来的に不可分だと先人はわかっていました。
身体的行動や習慣をかえれば、意識や心持ちも自ずと変化します。
心は思い通りにならないからこそ、身体的アプローチから変えていくと、だんだんと心も付いていきます。
例えば、怒っている時に自分自身に「落ち着け」と言ってもなかなか落ち着けません。
この時に、呼吸を深くゆっくりすることで、心が〈怒れなくなります〉。
人は怒っている時は呼吸も浅くなっています。
呼吸が深くてゆっくりな人で怒っている人を見たことがありません。
空海も「近うして見難きは我が心」と言っているように「考えるな」といっても「考えちゃう」のが人間です。
これが解ると法螺貝に対して「分析的」「攻略的」「対立的」ではないアプローチになっていきます。
法螺貝は身体面を含めて観察し、人に教えて差し上げる際も身心の両方面を伝えることが不可欠かと思います。
ただ、相手の機に応じては、体感・納得してもらうために、あえて丁寧に言わないという事も必要になってきます。
ここもバランスの問題で、人は経験しないと腑に落ちませんから、本人が納得することが大切。
法螺貝に取り組む過程で諸行無常であるこの世において、どの段階にいようと、もう二度と今を経験できないと思えば、つまづきのその段階を楽しんでしまう方が健康的です。
なぜなら身体を通して色んな物事を眺めてみると何かしらの発見があるからです。
身体と心で臨んでいきたいものです。
YouTube「立螺」
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