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エア男子にはなりたくない

生まれてからこのかた47年余り、男(の子)として社会を生きてきた。

ものごころついた直後から今に至るまで、いつまで経っても理解できないことがある。それは、

なんで男はあんなに偉そうなのか
なんで社会は女を憎むのだろうか

この2つだ。2つは互いに結びつき、補完し合う関係にある。表裏一体、2つで1つ。男尊女卑という四字熟語で表されることもある。表現はなんでもいいが、とにかく理解できない。というか、納得できない。

僕は男性という生き物が女性とくらべて特に優れていると思ったことはないし、ある仕事について「これは女のやることだ」と思ったこともない。

生まれながらのフェミニストだからか。違う。単に不合理だからだ。男性にも女性にも優れた人はいるし、それぞれの人に得意分野がある。人それぞれが持つ可能性を存分に生かせる社会づくりこそが未来を拓くものなのに、女だからとかいうくだらない難癖でもってよりすばらしい将来になるチャンスをつぶそうとする行為の意味が、まったくわからない。

「できる」人に男女差はない。単に個体差があるだけだ。男だろうと女だろうと能力がある人はそのリソースが生かされるほうが社会のためになる。そう思っている。それをジェンダーを理由に阻む意味が、やっぱりわからない。そういう「非効率」な出来事が、多すぎる。

もちろんスポーツなどのように明確に男女差が分かれるものもあるが、それはむしろこの世のすべてのものごとのうち、ごく少数なのかもしれない。ほうら男女でこんなに優劣が出るじゃんと勝ち誇る人間は、その少数以外の世界が見えていないだけだ。その「明確な優劣」の向こうには、もっと広大な「なかったことにされてきた非優劣」があるはず。

それに、僕自身は女性を「だって女だから」という理由でバカにしたり貶めたり嫉妬の気持ちから陥れたりする男性が優れた人間である例を目にしたことがない。そんなことを言っている奴はたいていがあまり有能でない男だった。

基本的に、男性はいつもおびえている。だから徒党を組む。規律を作り上げ、ホモソーシャルの城壁の中でなれ合い、「男の中の男だ」とか言葉をかけ合って感動と興奮に目を潤ませる。と言うのは冗談としても、臆病なのは間違いない。では何におびえているのか。

結局のところ、女性に自分と全く同じ条件を与えたら勝負に負けるという潜在的な恐怖があるのだと思う。完全にフェアでニュートラルな勝負に持ち込まれたら、たぶん負ける。

だからそんな勝負に持ち込まれないようにしておこう。男よりできる女は寄ってたかって叩いておこう。彼女がうまく行ってない時は女だからと決めつけ、俺たちを越えていきそうな時は足を引っ張り、それでも引きずりおろせないなら女のくせにと陰で貶めよう。

とりたてて有能でもない男が女性をバカにして威張っているパターンばかりを見てきたひとりの男性として、男尊女子が生まれるメカニズムの芯にはそういう恐怖感があると思っている。下駄をはいたぶん高くなった目線から、女を見下す。オレは男だぜと偉そうにしながら、大したことはない。女性を差別するのはそんな性根の男ばかりだ。

ただまあ、世の中にはそういう単純な図式ばかりではなく、非常に優秀な男子がミソジニーに侵されたりしていることもあるんだろうから厄介なんだけど。最近は成功者男子による女性蔑視発言などがたびたび問題になっている。ふつうに考えたらそんなことをするメリットもないし、それがわからないようなバカでもない。

ああいうのはたぶん、もともと女性蔑視的な視点は持っていたんだろうけれど有能だからうまく隠していて、彼らの究極の成り上がりの先に「おおっぴらに女を貶めてもダメージを受けないオレ」的な妄想ステイタスがあるんだと思っている。SNSで圧倒的な数のフォロワー(信者)とかがいて、全能感にあふれちゃってるんだろう。

といろいろ書いてきたものの、僕は、自分がいつも公明正大なフェミニストで、女性が不利な状況にある時はいつもちゃんと向かい合ってきたと言うつもりもない。僕もまた臆病な男性の一人だ。声をあげられなかったことも何度もある。

もう20年以上前のことだけれど、今も付き合っている彼女と東京の地下鉄に乗って座席に座った時、彼女がびくっと体を震わせ、僕に「違う車両に行こう」と耳打ちしてきたことがあった。

あとで説明してくれたが、彼女は列車のロングシートの端に座っていて、その横に立っているオヤジに体を触られたらしい。いや、しかし僕は車両を移ろうと言われたその時、もう気付いていた。痴漢に遭ったのだと。でも僕は何も言えず何もできず、そのまま二人でただ立ち去った。

いきなりのことで頭が混乱していたと言い訳もできる。でも、もっと何かできたはずだ。少なくとも、そのオヤジを捕まえ、二度と他の被害者を作ることがないようにするべきだった。

その時沈黙した理由は、よくわからない。他の乗客から変な目で見られるのが怖かったのか。オヤジに歯向かわれるのが怖かったのか。捕まえようとして失敗するのが怖かったのか。たぶんその全部が一瞬で僕の「正義」をからめとったのだろう。

とにかくアクションを起こすことにためらいがあった。そのためらいを、気まずさを、彼女の恐怖に肩代わりしてもらい、その場を逃れた。

とにもかくにも、僕はあの時の卑怯で臆病だった自分を一度も忘れたことはないし、ずっとどうすれば良かったのかを考えている。ずっと後悔しているし、今も恥ずかしい。

だからどうすれば良かったのか、彼女とも時々話し合う。彼女もまた、あの時僕がどうするべきだったか、はっきりと答えが見えていないと言う。でももう心は決まっている。次目の前でそんなことが起こったら絶対に声をあげるし、クソはつかまえる。

近年フェミニズムやジェンダーに対する疑問、#MeTooなどの動きが活発化してきて、理不尽な性差別や性暴力に遭った経験やそのことから生まれた気持ちなどが発信され、シェアされることが増えた。

「旅館に二人で泊まりに行ったらおひつを女性のほうに置かれた」とか「夫の実家に行ったら嫁を理由にこき使われた」とかいろんな話題があったが、僕がそうした例を見聞きするたびに思うのは「その場にいた男性(特にパートナー)は何をしているの?」ということだ。

発信者(多くの場合は実際に被害に遭った人)の怒りや戸惑いは十二分に伝わってくるものの、その人の男性パートナーがその時どうしたのかとか、そのことに対してどう思ったのかということはあまり伝わってこない。基本的に触れていないのだ。なんだか、その場にいないか、空気であるかのような状況報告がすごく多い。

僕はこれを「エア男子現象」と名付けることにした。

とにかく、女性が不利な立場に置かれているその場に一緒にいたはずの男性の存在感が希薄なのだ。いったいあなたは、何をしているの? 目の前に起こった現象について、どう考えたの? そしてこれからどうしようと思ったの?

彼らも20年前の地下鉄の僕のように、いろいろな「臆病」が頭の中に充満して口を閉ざしたのかもしれない。ただ、その時何もできなかったとしても、あとから検討することはできるし、その考えを嫌な目に遭ったパートナーに伝えることはできる。

エア男子たちは、そうした事後のフォローについてもまるで存在感がない。「フォロー」もピンキリで、こうした問題については男性が事後に女性の訴えに対して「うん、そうだね、そうだね」と相槌を打つパターンも多いけれど、これもまた微妙に空気。

うなずきはするけれどこれからどうすればいいのか自分の考えを言わない男性も多いのだ。女性に自分の分の気まずさや恐怖を背負ってもらって口を閉ざし、発信する女性に矢面に立ってもらっている。

もちろん、女性の発信者がそこまでは書いていないからという可能性はあるけれど。ただ僕は、もうエア男子になりたくない。

彼女が女であるということを理由に理不尽な目に遭っていたらその時ちゃんと声をあげたいし、オレはこんな状況に絶対同意しないというアクションを起こす。そこにいる女性が彼女でなくても。

また、彼女がもしそうした出来事について発信することがあったとしたら、僕のその時の対応やどういう考えでいるのかについてもちゃんと触れてもらえるようなパートナーでありたいと思っている。僕は空気じゃないんだ。

男女平等について真剣に考える誰もがメンター的発信ができるわけでもないし、実際に言葉で性差別的な思考の男性の考えを変えることも難しい。でも自分とパートナーの小さな世界の中でくらいは、「空気にならない」ことはできると思う。

本当にパートナーのことを考えているなら、とりあえず空気になることはやめよう。それは女性をとりまく問題であると同時に、僕たち男性にかかわる問題でもあるのだから。男にとっても#MeTooなんだよ。だから一緒に考えよう。

僕はしょーもない人間だが、それだけは心に決めています。もう、エア男子にはなりたくない。

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