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死生観、ではない何か

平成最後の というキーワードが、去年から賑やかだ。
このことばにについて、私は今をキラキラと生きているイメージがある。最後というフレーズを使い、閉じようとしている時代や過去へのニュアンスを感じながらも、そこに映る人々からはいまと未来へのキラキラした何かが滲んでいるように思えるのだ。

それもあってか、私は今もなお、このキーワードに乗れないでいる。
平成は終わる。日々が平成最後だ。

私の日々に、特段の哀愁というか残念な思いはない。私が「平成最後の」から感じた今と未来へのキラキラしたものもない。

そして思ったのだ。
私は、来るべき将来にキラキラを期待したり、ワクワクして生きていないのだと。
なにも「平成最後の」な人が皆ワクワクでキラキラな人生をエンジョイしてると言いたいのではない。勝手に感じたイメージと、それと照らしてみた自分のスタンスの話だ。

言うなれば、私は残された時間を生きている。有限を知っているみたいなカッコいいものではない。
いつか来る終わりにソワソワして、見て見ぬ振りをしきることができない。

余命を宣告されているわけではない。それでも、私の時計は時を積み重ねているのではなく、ゼロに向かって削っている、カウントダウンをしているように感じる、そういう人生観なのだ。
何がそうさせてるかは、知らん。

昔は無限に人生があると思っていた。そこから死を身近に感じ、天井の存在を知ったのだから、よくある「大人になる」の一つなのだろう。

それでも、諦めとか、そういうところまではいっていない。
過去に生きるほどの過去を生きてもいない。刹那的に日銭を使い切るような日々でもない。
日々を丁寧に大切に生きているかといえば正反対だけど。

昔から、時々死を見てきた。友人が数人すでにこの世にいない。

真夏の人身事故を目撃したこともある。
血と肉の臭い。さっきまで人間だったモノが、まだブルーシートに覆われる前のそれが目に入る。足の入った靴を拾い上げる駅員。

紛れも無い死の感覚。
それでも、私は目の前で五感を刺激してくる死を、ゲームや映画、ドキュメンタリーで見るものと同一視していた。
この死が、世界に存在することはわかっていても、ジブンゴトにはなっていなかった。

共に学んだ友が世から消えても、人間がモノになる瞬間を見ても、自分の人生の無限を信じて疑わなかった。

やはり、ジブンゴトになるのは親族の死が大きいようだ。
祖父の死は、明らかに人生観を変えた。
それは初めて訪れた親戚の死というだけではない。肌に触れて、生の温もりが冷えていく瞬間を感じたこと、死に際の祖父が医師の判断ミスにより急激に衰弱し、かつてと変わり果てた姿だったこと、その全ての印象が、私の人生に終わりの存在を知らせた。

意識もしなかった人生の時計。
その針は反時計回りに進んでいる。

それを知っても、丁寧な暮らしを送っているわけではない。日々のベストを尽くしたい、それは昔から変わらない。ただそれは、明日はきっともっと輝ける、というようなキラキラしたものではない。悔いのない人生を、ってわけでもないんだが。

たしかに感じる死の予感に、気づかないふりがしたくて、気を紛らわせているだけなのかもしれない。

平成は終わる。だからどうした。
そういう斜に構えた私の心のホンネは、キラキラして見えるものたちと自分との間にある、違和感への戸惑いと苛立ち。

平静を装って、また明日から仕事仕事。

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