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忌野清志郎に憧れて鉄筋コンクリート造に。自力でビルを建てる男が「熟成中の未完ビール」をつくりたい理由【HOPPIN' GARAGE 建築家 岡啓輔さん】

サラリーマンの行き交うJR田町駅から10分ほど歩き、三田・聖坂をしばらく登ると、「蟻鱒鳶ル」(ありますとんびる)は突然現れます。

ゆるりとした生き物のイラストと、さりげなく書かれた「アリマストンビル現場」の文字。レンジ色のキャッチーな看板がぶら下がっていたのは、それとは不釣り合いに見えるほど重厚感のある、複雑に入り組んだ建物でした。

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建設中の物件にも関わらず、まるで遥か昔からそこにあるかのような佇まいは、外壁のコンクリートをつたういくつもの錆が歴史を感じさせるからでしょうか。

蟻鱒鳶ルの施工主は建築家の岡啓輔さん。2005年に着工してから15年経った今も未完のこの建物、完成予定は令和7年だとか。かの有名なサグラダ・ファミリアになぞらえて、人々は彼を「三田のガウディ」と呼びます。

「辛いと思うことは山ほどあるけれど、やめようと思ったことは一度たりともない」

そうはっきりと断言する岡さんは、一体どのような人生を歩んできたのでしょうか。蟻鱒鳶ル建築までの道のりと、そこにはせる思いを伺いました。

三田のガウディは建築オタクであり、舞踏家でもある

「中3のとき、学校が突然嫌になっちゃったんです。勉強はできた方だったけど、先生に反抗するためにテストの解答用紙を白紙で出すようになってしまって。通知表の点数が下がってしまい、学区も成績も関係のない有明高専建築コースに進学しました。

入学するまで建築コースのイメージは、大工になるための勉強をするものだと思っていました。でも実際は建築の歴史や設計など、僕が想像していた建築コースのイメージとはかけ離れていたんです。

結果オーライですが、建築の勉強がとにかく面白くて、僕は図書館にこもってずっと建築について調べていました。おそらく、学校で建築について一番詳しかったと思います」(岡さん、以下同)

そんなきっかけから建築の世界にのめり込んでいった岡さん。

「でもいくら建築に詳しくても、その知識があるだけでは建築家として生きていけないことを知りました。上には上がいる。だから僕は他の人がやりたがらない職人仕事をするしか、建築関係で生きていく道はないと考えたんです」

写真1蟻鱒鳶ルの中、岡さんの作業スペース

岡さんの経歴には、他の一級建築士とは違った肩書きが並んでいます。とび職、鉄筋工、型枠大工など、建築士とは近いようで遠い肩書きの数々。これらの経験が後に蟻鱒鳶ルをセルフビルド(※)する上で重要な要素になっています。

(※)住宅を自分自身で建てること

そして岡さんの経歴で一際目を引くのが、“舞踏家”という肩書きです。

「僕は心臓病を持っていて、子どものときから体が弱く、運動が苦手でした。だから自分が踊るなんて考えたこともありませんでした。

毎年夏に開催される建築を学ぶための合宿『高山建築学校』に通っていた23歳のとき、校長の倉田先生からすごく怒られたんです。

『建築だけをやっていれば成功できるほど建築は甘くない。建築以外のことを経験しろ』と建築禁止令を出されて。

当時、僕は街を散歩しながらスケッチをする生活をしていて、四六時中建築を考えるほどの相当な建築オタクだったんです。建築以外の経験……何をしようと考えていたときに、舞台美術の仕事で出会った舞踏家に『踊りをやってみないか?』と誘ってもらいました。

子どものとき運動をしてこなかったからか、舞踏を始めてみたら体を動かすのが楽しくて、1年だけ経験するつもりだったのですが、気づけば舞踏にハマっていました。

ハマった理由として、舞踏の創始者である土方巽(ひじかたたつみ)の思想に触れられたのも大きかったです。なぜそこで跳ぶのか、なぜそこで回るのか。踊りには必然性があって、それは建築にも通じるところがあるなと、彼の影響を受けました」

友達のためにつくった風呂が、建築家人生のターニングポイント

建築をしながら舞踏の魅力にも取り憑かれていった岡さんですが、舞踏家の仲間からの依頼によって、建築家としてのマインドを確立する貴重な経験をします。

「舞踏家の仲間に『風呂をつくってくれ』と頼まれたんです。

ボロボロの木造アパートの2階で、予算はたったの10万円。要望を聞くのは初日のみ、僕がその後どんな風呂にしようと一切口を出さないこと、仕事の合間に設計・施工をするために半年の期間を要することを伝えて、彼は了承。文句も言わず自由にやらせてくれました。

屋根を開閉式にしたり、梯子をかけたり。小さい風呂をひとつつくるのに本当によく考えましたね。ビスを使うかネジを使うか接着剤を使うか、それを決めることだけで丸1週間かかることもありました」

友達のお風呂であれば、もっと簡単につくることもできたはずですが、決してそうはしなかった岡さん。

「彼はそのとき踊りと左官職人の仕事が上手くいっていなくて、自信を失くしていたんです。ものをつくることや表現をすることに。だから僕は彼に示したかった。時間がかかっても自分の頭でよく考え抜けば、どうにか形になることを。10万円でもかっこいいものができるんだぞって元気づけたかったんです。

完成したとき、彼はすごく喜んでくれました。その風呂に入りたくて人が集まったり、NHKから取材を受けたり、彼は元気になってくれました。

考え抜いてつくったら人に影響を与えるほどのものが完成した、ひとつひとつ積み重ねていけばいいものをつくることができた、このセルフビルドの体験は僕の建築家キャリアにとってすごく大きかったです」

鉄筋コンクリート造は、忌野清志郎への憧れが由来

「あなた、設計も大工仕事もできるんだから家をつくったら?」

妻のひとことから蟻鱒鳶ルの建築を決意した岡さんですが、建物の構造を鉄筋コンクリートにした理由を伺うと、少し照れ臭そうに語ってくれました。

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「コンクリートだと業者をあまり頼らなくてもひとりでつくれるという理由もあるんですが、一番の理由は、忌野清志郎さんの影響です。子どもの頃から忌野清志郎さんや、ロックバンド 『RCサクセション』の大ファンだったんです。

鉄筋コンクリートって、建築用語で「RC」と呼ぶんですよ。だからRCサクセションにちなんで『RC作製所』という会社を立ち上げて鉄筋コンクリートの建物をつくったら、忌野清志郎さんに会えるんじゃないかと思って(笑)。

蟻鱒鳶ルがいろいろなメディアで取り上げられるようになって、忌野清志郎さんに『蟻鱒鳶ルをつくっている、RC作製所です』とお手紙でいよいよ伝えようとしたのですが、残念ながらその頃お亡くなりになってしまって……結局伝えられませんでした」

忌野清志郎さんへの思いを悔しそうに話す岡さん。真面目で独創的な岡さんの口から放たれた、鉄筋コンクリート造の理由に面食らいつつも、同時に柔らかな人柄を見たような気がしました。

ロンドンの建築家たちが絶賛する、アジアの片隅にある近代建築の魂

ミーハーな理由から蟻鱒鳶ルの構造を決めた岡さん。この15年間は順風満帆とはいかなかったようです。

「つくり始める前に、僕の考えや蟻鱒鳶ルのコンセプトを整理して、絵にまとめたんです。その作業も大変だったけれど、その絵をどのように形にして、世に出せるのかを考えることが地獄のようにキツかったです。絵にはなっているのに、現実化するためにはどうすればいいのかがさっぱりわからなかった。当時は眠れない日が続きましたね。

本当にキツくて、うまくいかなくて、辛いと思うことは山ほどあるんですけど、辞めようと思ったことは一度たりともないんです。難題に差しかかるたびに、悩んで悩み抜いて、なんとか解決できたときはほんとうれしくて。辛いけど、面白さも最高だと思っているから辞められないんです」

そんな岡さんが思わず涙したエピソードがあります。

「数年前からでしょうか。蟻鱒鳶ルにイギリスから見学者が来るようになりました。中でもロンドンの建築学生が多いんです。

なんでイギリスから蟻鱒鳶ルにわざわざ来るんだろう? と不思議に思っていたんですが、かつて『アーツアンドクラフツ運動』という、手作りの良さを伝える運動が1800年代後半にイギリスで起こって、そのマインドが今でも残っているからだとわかりました。

あるときロンドン大学出身の建築家5人が見学に来て、『僕らは近代建築に魂のあるものはもう存在しないと思っていた。でもアジアの端、日本のここにあった』と話してくれて。本当にうれしくて、その日は泣きましたね」

実は人からの反応や評価が怖かったという岡さん。徐々に形になる蟻鱒鳶ルを、尊敬する建築家や海外の人が褒めてくれるというのも、長年つくり続けるモチベーションになっていると言います。

「イギリスの美術・建築評論家、ジョン・ラスキンが、100年以上前に“美しいもの”と“美しくないもの”を定義したんです。それは『楽しんでつくったものは美しい、嫌々つくったものは美しくない』という内容でした。

僕はそれを20代前半の頃に初めて聞いたのですが、『そんな馬鹿な話があるかよ! それが本当なら誰も苦労しないよ!』と思ったんです。しばらく腑に落ちなかったのですが、この言葉通りのことを僕は蟻鱒鳶ルで無意識にやっているのだと、訪れるイギリスの方々から気づかされました」

有識者に200年以上は保つと太鼓判を押されるほど良質なコンクリートで作られた蟻鱒鳶ル。しかし、200年後の姿を岡さんは見ることができません。

「僕が生き生きとしながらつくったものは、200年後も生き生きとしていると信じてつくり続けています。だから僕が死んだ後も、この蟻鱒鳶ルを見た人たちが生き生きとしたものを感じ取ってくれたらうれしいです」

ビルもビールも1日にしてならず

1日の終わりに晩酌をする岡さんは、ビールをほぼ毎日飲むそうです。どんなシチュエーションの飲み方が好きなのでしょうか。

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「真夏に建築仕事を終えてから仲間と飲む1杯が最高です。みんなで輪になって腰を下ろして『ふ〜乾杯!』がたまらないですね。

仕事終わりのビールが大好きなんですが、ロンドンのパブで飲んだ、人生で忘れられない1杯があって。

3年前、ロンドンで知人に連れられて行った先は、暗くて静かな住宅街に1ヶ所だけ明るい場所でした。入ってみると、老若男女問わず、みんなビールを飲みながら交わっているパブだったんです。

政治や哲学の話をしている人もいれば、女の子を口説くのに必死な若者もいて、その光景がとにかく面白くて。イギリスは常温のビールを飲むんですが、あのとき飲んだビールの味は忘れられないです」

最後に、建築に情熱を注ぐ岡さんに、その人生をビールに例えていただきました。

「うーん、僕は『蟻鱒鳶ール』というネーミング以外何も思いつかないです(笑)。難しいなぁ……。

昔、友達から『岡の近くにいると“チャクチャク”と音がするんだよな』と言われたことがあるんです。僕は何かをするとき、綿密に計画を立てて、“着々”と進めていくタイプなんですよ。

10万円で風呂をつくったときもそうですし、蟻鱒鳶ルだって、これまですでに15年を費やしていますが、令和7年の完成に向けて着々と進めています。まだまだ未完で、焦ることもありますが(笑)。

ひとつひとつ手作りで、時間をかけて仕込んだ、「熟成中の未完ビール」なんてどうでしょうか。ロンドンの建築家が建設中の蟻鱒鳶ルに魅力を感じるように、熟成中だからこそ飲みたくなるようなビールだったら僕の人生っぽいですよね」

物事を考え抜き、それを着々とこなして積み上げてきた岡さんの「熟成中の未完ビール」を飲みつつ、蟻鱒鳶ルが完成するの日を生き生きとしながらゆっくり待ちたいと思いました。

HOPPIN’ GARAGEでは、今後ビールになるかもしれない魅力的な人々の人生ストーリーを紹介しています。今回紹介した岡さんの人生ストーリーがビールになる日が来るかも!? 今後のHOPPIN’ GARAGEにもご期待ください!

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2018年10月に始まった『HOPPIN’ GARAGE』。

HOPPIN' GARAGE(ホッピンガレージ)は、「できたらいいな。を、つくろう」を合言葉に、人生ストーリーを材料としたビールづくりをはじめ、絵本やゲームやラジオなど、これまでの発想に捉われない「新しいビールの楽しみ方」を続々とお届けします。