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『真夜中の五分前』~原作小説を読んでみた

春馬くんの出ている映画『真夜中の五分前』が好きで、ここのところその世界にはまっている。

以下、先日書いた記事。ネタバレあります。

ふと気づくと、残ったのは姉妹どちらなのかという謎を考えている自分がいた。

およそ半年前自宅で初見後、原作小説を軽く一度読んだ。ふむふむ、随分映画と違うのね、と思った。先日、ドリパスの大スクリーンでこの映画を見ることにより、あれ?原作小説ではどうなっていたんだっけ?と思い立った。よって、今回、じっくり読んでみることにした。2007年に発表された「真夜中の五分前―five minutes to tomorrow」は、〈side‐A〉と〈side‐B〉 の2巻から成る本多孝好の恋愛小説。もう10年以上前の小説だが、語り口はスタイリッシュで都会的。ここから先は、原作小説のネタバレそのもの。今後読む予定の方は、読んでからどうぞ。

原作小説の主人公の人物像

物語は、主人公の”僕”が一人称で語ることで進んでいく。ほかの登場人物も、主人公のことを「あなた」や「君」、「お前」と呼びかけるので、主人公の名前は最後までわからない。映画では、主人公は”良”という名前を持っていたので、てっきり小説でも同じ名前だったと思っていたが、それは私の勘違いだった。

舞台となるのは東京で、”僕”は広告代理店で働く26歳。
ヘッドハンティングされて来た、社内でも有名な厳しい女上司の下で、その無茶な要求に唯一応えられる有能な若者。
敵ばかりの女上司を引きずりおろそうとする社内の権力抗争に巻き込まれそうになるが、他勢力からの引き抜き要請があっても、決してそれに迎合しない。だからといって、女上司に義理立てしているわけでもない。要するに執着がないのだ、ひとにも、地位にも、権力にも。

そのためか、”僕”は社内では孤立した存在だ。

社内の権力抗争の裏事情をわざわざ密告してくれた同じ部署の6つ上先輩の沢野には、ついに

「気づいているだろうけど、俺はお前が好きじゃない」
「積極的に嫌いなんじゃないぜ。ただ、なんとなく好きじゃないんだよ。俺だけじゃない。課の他の奴らにも聞いてみな。みんなそう言うから」

と言われる。それに対しても”僕”はこう返す。あくまでも飄々と。

「結構、色々と気は遣って生きてるつもりなんですけど」

また、〈side‐B〉では、”僕”は転職して飲食店のプロデューサーとして成功しているが、とある赤字に喘ぐバーの改装プランを任されているとき、そのオーナーからこんなことを言われる。

「どうやら私は君が嫌いだ」

それに対して

「その点は同感ですね」と僕は笑った。
「僕も僕が嫌いです」

と返す。反論しているわけではないのだ。淡々と冷静に自分の考えを述べているだけ。
そんなに「嫌いだ」ってひとから直接言われるってどういうわけ?
おそらく”僕”の仕事の仕方が、非情に見えるのだろう。
”僕”は先のバーのオーナーにこう言い放つ。

「(これから作ろうとしているのは)
金さえ出せば、誰でもそういう気分を味わえる、あるいは味わったような気分になれる店です。まがい物ですよ。偽物です。偽物の中に本物はいらない。」
「必ず満足いただける結果は出してご覧に入れます」

確かに、あまり優しさは感じられない。店に来る客を少し小馬鹿にしているような印象を受けるのだろう。

では、女性に対してはどうか。

ここ数年、仕事を通じた何人かの女性と表面だけの付き合いを繰り返している。
物語の序盤で、公営プールで知り合った女性との会話。最初の会話では敬語だったのに、二回目の会話ではすでに砕けた口調になっている。その女性に「あなたはどんな人?周りはあなたのことをどう言ってるんです?」と聞かれたとき、”僕”は

「器用でそつがないかれど、結局のところは中身のない女たらし」
「前の彼女と別れたばかりなのに、公営プールで会った女性とお茶を飲んでる」

余裕のある会話だなと思う。おそらく、何も言及されていないが容姿もいい方なのだろう。もちろん映画でも主人公は春馬くんだから、すこぶる容姿端麗である。でも、性格は映画の主人公とだいぶ違うと思う。映画の方は、真面目な職人気質の無口な青年。原作小説の方は、器用で冷めてて自信家で飄々とした青年だ。

主人公の過去

”僕”の大学時代の恋人水穂は、「人よりちょっと得した気になるから」と言う理由で時計を五分遅らせていた。その水穂は二十歳になる前に交通事故で亡なった。

水穂を亡くした後、”僕”はしばらく食事もとらず引きこもりいわゆる「ひどい状態」にあった。でもそれは、水穂が死んでも自分が驚くくらいに何も変わらず、何も失わなかったことに混乱していたからだと言う。水穂を愛しているつもりだったのに、”僕”は致命的に傷つくことはなかったと。愛とは何だったのか。愛がわからないと。

そのため、”僕”はその後付き合った女性たちとセックスをすることはなかった。彼女たちが翌日死んでしまったとしても、やっぱり傷つかないであろう自分が想像でき、彼女たちの中に吐き出して許されるものは、”僕”の中にはない、と思うからだと。だから、それまでの恋に疲れていた彼女たちは、”僕”に癒されると次に動き出すきっかけをつかんでは去っていった。

クールで人間味が無いように見える”僕”は、実は誰よりも誠実なのではないかと思う。愛を何よりも尊く大切なものだと思うからこそ、もう自分には愛を見る資格はないと思ったのではないか。

双子の姉かすみとの出会い

映画と同様、原作小説の中でも、”僕”は一卵性双生児の姉のほうのかすみと公営プールで出会う。ロビーでちょっとしたきっかけで会話することになったのが始まり。
次にプールで会った時には、かすみの方から声をかけてきた。映画と同様、買い物に付き合ってほしいと。”僕”は、デパートで誰に送るかもわからない結婚祝いの品を選ぶ羽目になる。”僕”が選んだのは香炉。時計じゃないのね。買い物の後の喫茶店でかすみは、自分が一卵性双生児であること、選んでもらったのはその妹への結婚祝いだったという。そこで一卵性双生児の不思議を聞かされる”僕”。二人は常に同じ。考えていることも選ぶものも。だから、敢えて何も知らない”僕”に選んでもらったのだ、と種明かしする。
その後かすみからの誘いで二人は会うようになる。妹ゆかりと婚約者の尾崎さんの話を聞くが、かすみは尾崎さんのことになるといささか口重になる。官僚家系で住む世界が違うから話が合わない感じがする、と。

後日、会員制テニスクラブでのダブルデートで初めて会う尾崎さんは、かすみから聞いていたのとは違い、話しぶりにも構えたところがなく、立ち振る舞いにも気取ったところがない。頭もいいし育ちもいいのに相手に対してコンプレックスすら感じさせない。
男二人っきりになったとき、ふときいてみたくなった。

「ほとんど奇跡的な確率でその人と相似形のもう一人が存在する。そういうときに、考えたりしませんか。なぜ、かすみさんではなく、ゆかりさんと結婚するのかって」

それに対して尾崎さんはこう言う。

「事実としてそうであったということで、そこになぜはないよ。僕はかすみさんではなく、ゆかりと知り合って、お互いに好意を持ってその行為を愛情というきちんとした形にまで育んできた」

4人でいる間じゅう、”僕”と既に恋仲であるような態度を取るかすみに違和感を覚え、気づいてしまった”僕”。妹カップルと別れ二人きりになった時に深いため息をついてうなだれ「いつ気づいた?」と”僕”に聞くかすみ。
かすみが尾崎さんへの張り裂けそうな恋心を”僕”に打ち明ける。三年前初めて会ったその瞬間から、かすみは尾崎さんが好きになった、と。

「私は彼が好き。大好き。頭がおかしくなりそうなほど好き。彼とキスしたい。彼に抱かれたい。毎日、毎日そう思ってる。たった一度でもそうしてくれるなら、次の日に死んだって構わない。彼が好き。好きなの。」

ゆかりの身代わりでもいい、というかすみ。だったら、”僕”は言う。ゆかりを殺せばいい、それができないなら諦めるしかない、嘘でも振りでも。それがいつか身に着くかもしれない。

「僕のことを男として眺めてみる。少し寛大な心を持って眺めてみる」

なんて、すこしおどけてかすみを口説いてみる”僕”。ここまでかすみに言われちゃうとね。ここまで聞いちゃうとね。もうまじめには口説けないよね。

「愛してる」という名前をつける


その後、頻繁にデートを重ねる二人だが、かすみの尾崎さんへの想いを知ってしまっている”僕”は、時折抱きしめたい衝動に駆られても距離を縮められない。

ある夜二人でお酒を飲んでいるとき、かすみが「私のこと好き?実はわたしはゆかりちゃんかもしれないじゃない」と聞いてきたとき、”僕”はこう答える。

「僕はね、どうにもならない恋心を持て余して、それでもそれを捨てられなくて、もうどうしようもなくなっちゃって、僕の隣で不器用に酔っぱらって喚いているその人が好きなんだ。そういうの、とてもいいなと思う。それは誰にも否定なんてさせない。君がかすみさんであろうが、ゆかりさんであろうがね。関係ない」

映画『真夜中の五分前』の行定監督が、この作品で一番表したかったのはここからヒントを得たのかな、と思う。「その人が誰なのかということではなく、目の前にいる、その苦悩した一人の女性を愛することができるかどうか、それに葛藤する青年の物語を描きたかった」というようなことを行定監督はいろんなところでおっしゃっていた。

話を小説に戻して。
酒に酔い帰れなくなったかすみを部屋に泊めた”僕”だが、何も起こらない。何も起こせない。翌朝、鳴り響く電話は亡くなった水穂の父。今日は水穂の七回忌。以前から来てほしいと手紙をもらっていたのだ。行けないことを詫びて電話を切り、それをきっかけに”僕”は水穂のことをかすみに語りだす。一度、水穂にきちんと会いに行った方がいいと責めるかすみ。その必要はないという”僕”。

「お墓なんかに水穂はいないよ」

また別のある夜、元上司と飲んで酔って帰った”僕”の部屋の前にかすみが待っていた。”僕”に抱かれる覚悟を持って来たという。君は尾崎さんをまだ愛しているはずと言う”僕”に、かすみは「愛していた」と過去形に言い直す。そこに確かにあったはずの尾崎さんへの愛はどこへ行ったのか、”僕”は混乱する。愛を見失っている”僕”は、かすみを受け入れられない。”僕”の心を覆った殻は、かなり強固なものであり、それを割ろうとするかすみ。
この5ページに渡って二人の心が近づいていく様子がなんとも言えず素敵。やがてゆっくりと、かすみによって”僕”の心を覆った殻が割れていく。そして、遂に。

崩れて、そこから現れたものに僕は名前を付けた。
「愛してる」

ここで〈side‐A〉が終わる。
なんでも、作者の本多孝好氏は、この〈side‐A〉の終わり場面からこの小説を書き始めたという。確かに、このシーンが本当に素敵なのだ。
ここ、春馬くんが演じたら・・・と思うと、ドキドキする。
そんな春馬くんも見たかったな。

そして起こった事故、疑惑

〈side‐B〉に入ると、物語は途端にサスペンスになる。

双子の姉妹で出かけた旅行先のスペインで列車事故に遭い、映画と同様、片方だけ生き残るのだ。双子の両親と新婚の夫が現地に赴き、生き残ったひとりを連れ帰る。ゆかりと信じて。

事故から一年半が経過し、会社を辞め飲食店の名プロデューサーとして活躍するようになった”僕”に尾崎さんから電話が入る。会いに行くとすっかり憔悴しきった彼から奇妙な依頼を受ける。

自分の妻として一緒に暮らしている女に会ってほしい、と。

それは、生き残った彼女がかすみであるかもしれないという疑惑の始まり。かすみが、僕の恋人である人生よりも、尾崎さんと結婚している人生を選んだというのか?と少し傷つく。

後日、尾崎夫妻のマンションで再会した彼女は、スペイン旅行での出来事を事細かに話してくれる。いかにもゆかりとして。
以前かすみから聞いた言葉を思い出す。

そうね。ゆかりちゃんを殺せなかった。だから、私は私を殺したの。

かすみは、殺していた自分を生き返らせゆかりと入れ替わったのか。疑惑は”僕”を苦しめ、尾崎さんを苦しめ、そして彼女も苦しめる。

数週間後、彼女が”僕”の部屋の前で待っていた。

尾崎さんから別れ話を切り出されたと言う。

また、彼女は、かすみから聞いたといい、”僕”とかすみしか知り得ないことを話す。初めて泊まった翌朝に、煎れてくれたインスタントコーヒーが薄すぎたこと。煎れ慣れないインスタントコーヒーだったから分量を間違えた、とかすみは言っていたと。”僕”が、酔いが残る自分を気遣って薄く煎れてくれたと思っていたのは誤解だったのか。

悪魔のささやきが聞こえる。

お前の言う愛情なんて誤解の積み重ねで成立してるんじゃないのか?そのとき交わした会話は、そのとき交わしたキスは、そのとき交えた体は、本当にお前が思う意味だったのか?

駅に送る途中で、昔かすみとよく来たラーメン屋のことも彼女は知っていて、寄りたいという。その店でのふるまいもかすみそのもの。

より一層疑惑が頭をもたげる。

彼女はかすみかゆかりか

更に数日後、彼女から急に彼女の自宅に来るようにと電話が入る。

尾崎さんは疑惑と愛情のバランスを崩し出て行ったとのこと。ゆかりだけが知っていてかすみが知らないはずのことを、彼女が覚えていなかったためだ。彼女は、そんな昔のことは忘れてしまっていただけと言うが、それが決定打になってしまったらしい。

なにより驚いたのは、彼女が、初めて結ばれた夜にかすみが着ていた洋服を着て”僕”を迎え入れたことだ。

そして「私はゆかりじゃないし、かすみでもない」と言う。

両方の記憶があるという。尾崎にも”僕”にも愛された記憶があるという。死んだどちらかが、生き残った方に記憶を託したんじゃないかと。

そして着ていた服を脱ぐと、初めて結ばれた夜にかすみが付けていた下着。

「かすみもゆかりも関係ない。君は君だ。そう言ってくれたわね」

”僕”がかすみに言った言葉だ。いつも自分は付けられた名前になってきたと彼女は言う。

「今度はあなたが名前を付けてくれない?」

何者でもない休暇

実はその数日前に、”僕”の気持ちには変化が起こっていた。

辞めた会社の例の女上司とばったり出会いお茶を飲んだ時、プロデュースする飲食店が次々とヒットし今はその業界では売れっ子になっていた”僕”に、元上司は「私が君の上司なら合格点。でも、個人的にはあの店にはもう二度と行かない」と言う。そんな店を作った”僕”の状態を心配し、少し休んで何者でもない時間を持った方がいいと忠告される。

忠告通り休みを取り、”僕”は何者でもない時間を持つことにする。プールに行ってみたり、部屋の窓際に寝転んで空を見てみたり。昔水穂と一緒に行っていたコーヒーショップに立ち寄り、マスターが自分と水穂のことを覚えていたことに驚いたり。そして”僕”はふと水穂の墓参りをしようと思いつく。水穂のためというより、かすみとの約束を果たすために行こうと思う。でも、水穂の墓前に立ってみて初めて感情が動き出した。”僕”は、ただ水穂が今ここにいないことが悲しくて泣いた。水穂に会いたくて泣いた。そして、かすみの「あなたは水穂さんを愛していたのよ」という声が聞こえてきて泣いた。
”僕”が来ていることを知り墓地の駐車場で待っていた水穂の父が、”僕”に言う。

「いつか君は水穂のことを忘れるだろう。それも構わない。ただ、もし水穂のことを思い出したとき、そこにあったものだけは疑わないでほしい。君と水穂は愛し合っていた。それが幼い愛情だったとしても、愛し合っていた。そうだろう?」

「そうです」と”僕”は頷く。

東京に戻った”僕”は、例のバーのプランを練り直すことにする。病気の妻との思い出のバーを、その治療費を捻出するために儲かるバーに作り替える決断をしたオーナーの意向を汲んで、これまでの”僕”が手掛けて成功させた店とは異なるプランに変更したのだ。もうこれで、自分の名声は失われるという覚悟を決めて。

”僕”が選んだのは

話を戻す。彼女は一糸まとわぬ姿になり、自分に名前を付けてくれという。

”僕”がかすみだと言えば、彼女はかすみなる。そうすれば、かすみとの未来が得られる。

だけど、”僕”が付けた名前はーーーー

「おやすみ。ゆかりさん」

随分月日が経ってから、彼女は、”僕”も尾崎さんも知らない誰かと結婚したという。

僕は今でも一日の最後の五分間だけ、かすみのことを思う。水穂のことを思う。そのとき、そこにいた自分のことを思う。

ここで小説のタイトル、「真夜中の五分前」が読み手に穏やかに提示され終わる。

考察

結局、生き残ったのはかすみだったのか、ゆかりだったのか。

真実は小説の方もまたよくわらかない。読み手の受け取り方に委ねる終わり方である。

でもきっと、水穂の墓前で涙を流し解放された”僕”は、自分が水穂を愛し、水穂も自分を愛していたことを確信したことによって、見失っていた愛がはっきりと見えたんだと思う。

だから、東京に戻ってから例のバーのプランも練り直したのは、愛を見ない今までの仕事のやり方を終わらせたんだと思った。

そして”僕”は生き残ったのはゆかりだと思った。多分、決めたんだと思う。目の前に生きている彼女をかすみだと思うことは、かすみが尾崎さんとの人生を選択したということであり、かすみの自分への愛を信じないことだからだ。

水穂の件で見失った愛がはっきり見えたことにより、自分がかすみを愛し、かすみも自分を愛していたこともまた確信し、目の前の彼女をかすみではなく、ゆかりだと思ったということではないか。

私も、ゆかりだと思った。ゆかりであって欲しいと思った。

終わりのタイトルを思わせる文章。真夜中の五分前、”僕”は愛してくれた水穂とかすみに想いを馳せ、また水穂とかすみを愛していた自分に想いを馳せる五分間。それは、きっと愛を信じられる自分に喜びを感じる安らぎの時間なのだろう。

映画とは全然違うけど、素敵な恋愛小説だったな。



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