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『森の学校』から受けとったもの

はっきり言って、ちび春馬くんを見たいというそれだけの目的で見に行ったようなものだ。
おそらく、ちび春馬くんが出ていなかったら見ることもなかった映画『森の学校』。

それなのに、映画館を出る頃には、私はすっかり魂が浄化されたような気持になっていたのだ。ちび春馬くんが演じていたという贔屓目を差し引いたとしても十分過ぎる良作。春馬くんがこの映画に私をいざなってくれた。春馬くん、どうもありがとう。

丹波篠山の大自然が素晴らしいのは言うまでもなく

昭和10年代の丹波篠山で育つちび春馬くん演じるマトこと雅雄は、歯科医の家の六人兄弟の三男坊。体は弱いが、昆虫好きのガキ大将マトの成長を描いている映画。丹波篠山の大自然が素晴らしく、見ているだけで癒されるのは言うまでもない。山や森や川や滝など画面の中は鮮やかな色彩と心地の良い音に包まれていた。昭和10年が舞台なので、身につけているものも着物だったり、お弁当が日の丸弁当だったりと、物質的には豊かとはいえない時代。でも、人間の心はとても豊かだったと思わせる。そして、郷愁。悪さをして廊下に水の入ったバケツを持って立たされたり、リヤカー引いておばあちゃんちに荷物を取りに行ったり、滝行の真似事してたり、遊びに夢中になって肥溜めに落ちたり。若い世代には未知の世界だろうが、後方の年配のご夫婦が声を上げて笑っていたのが微笑ましかった。懐かしかったのかな。

自然の中で育ち、自然と触れ合うことで子供が伸び伸びと育つ様、それを描いた映画なんだろうなということは、見る前からタイトルや宣材写真などから想像に難くなかった。

でも、この映画を見て、「インターネットもスマホもない古き良き時代のきらめき。大自然の中での経験を通して豊かに成長していくって素晴らしい」と、そういう感想だけには終わらせたくない。現代で、とりわけ都会においては、大自然に触れることは最も難しいことの一つになっている。だったら、現代の都会に住む子供たちは、マトのような煌めきを持ち合わせることはできないのか。(私は、いわゆる都会といわれる地域に暮らしているもので)

それだけでないと思った。私は、この映画から、期待を遥かに超えて大切なものを受け取った。

『森の学校』から受けとったもの

マトは体は弱いが、好奇心の塊。勉強はできないが生き物が大好きで、好奇心の赴くままに冒険する。とにかく、マトが、純粋で真っすぐで優しくて勇敢で正義感に溢れてて、光のように煌めいていることに心打たれ、眩しくって愛しくって仕方なかった。好奇心ってすべての原動力であり、時間も忘れて没頭できるほど、好きなこと、楽しいことがあることが生の煌めきなのだと思う。人間って、生まれ持った資質もあるとは思うのだけど、生まれたまんまだと多かれ少なかれみんなこうなのかもしれない。それがいろんなものに邪魔されて、そういった煌めきが縮小していってしまうのかもしれない。私も含め大人たちは、口うるさく子供の好奇心の邪魔をしてしまう。時間の無駄だの、勉強しろだの、もっとやるべきことをやれだの。でも、マトの両親は違った。マトの両親は、マトの根っこの魂の力を信じてそれを大きな心で受けとめ認め、全面的に応援しているのだ。

また、周りのひとを大切にすることを身をもって示している。
マトの父親は、マトが友達をかばって憲兵隊長の息子と喧嘩したことを褒めた。近隣の父兄たちがめんどうな喧嘩に我が子が巻き込まれたのを抗議しに来た時、祖母が丸く収めようとその父兄たちに謝ったことについて「謝らないでください!マトが悪者になってしまうでしょう!」と戒める。その後、とぼとぼと歩いて帰る我が母親(マトの祖母)の後を追いかけて自転車の後ろに乗せて送っていくのは、母親のこともまた大事にしているから。
また、マトのことを心配するあまり口うるさく言う祖母に、つい暴言を吐いてしまうマト。父親はその暴言は許さず、物置にマトを閉じ込める。ひとを傷つけることは許さないのだ。
祖母の危篤の知らせを聞いて、暴言を吐いたことをまだ詫びていないと急いで駆けつけるマト。間に合わずに悔やむマトに、母親が「きっとおばあちゃんはわかってはる」と慰める。謝ろうとしたマトの気持ちを大切にしたのだ。この映画の中のひとたちは、なんて、周りのひとを大切にしているんだろうというところが書ききれないほどある。

今はコロナ禍で、すごいパラダイムシフトが起きている。今までの価値あるものが全然威力が無くなってきたりってことがたくさん起こっている。戸惑いながら暮らす日々の中で、だけど変わらず大切なことは、その人の魂の力を信じて認め受け入れること。周りのひとを大切にすること、私がこの映画を見て受け取ったのはそういうものだった。
目新しいものではない、だけど忙しく過ごす毎日で忘れかけていたあまりにも原始的なものだからこそ、魂が浄化されたようなそんな気がしたのだ。

ちび春馬くんのこと

ちび春馬くんは12歳にして、既に俳優だった。
昭和10年代に生活しているマト少年にしか見えなかった。

いろんな感情でコロコロと表情を変え、拗ねたり怒ったり泣いたり笑ったりする様子は、本当に可愛くって眩しくって愛しかった。

特に、既に俳優三浦春馬ここにあり!というシーンは、憲兵隊長の息子との決闘シーン。鋭い目つきで大声で相手を威嚇し、突進していく様子はまさにガキ大将。実際のちび春馬くんは、おそらく穏やかな少年だったと思うが、もう既にこの時点でこの演技力、と驚かされた。

東京から越してきた美代ちゃんに対する淡い恋心も、うまく表現していた。
最初に、父の病院に歯の治療に来た美代ちゃんに自作の動物園を見せない、とちょっと意地悪するところ。気になる子に素直になれない様子が可愛くって。
神社の境内で雷に合い、くっついて怖がるところ。
徐々に仲良くなっていく二人が、野山で遊ぶところ。
美代ちゃんがお母さんのいる東京へ戻ると告げた時の、マトの「あ・・・そう。」という表情。
淡い淡い初恋の清らかさで胸がきゅーんとしたし、ちび春馬くんがそういう経験をしたことが嬉しくもあった。

結局のところ

この映画から私が受け取ったものは、春馬くんがこれまでずっと見せてきてくれたものと同じなのかもしれない。

『キンキーブーツ』の中で、春馬くん演じるローラは、「自分を受け入れ、他人を受け入れること」と言っている。これは、その人の魂の力を信じて認め受け入れることだよね。

そして、春馬くんがいなくなった後、次から次へと出てくる春馬くんエピソードから、いかに春馬くんが周りの人を大切にしていたかがよくわかる。

西垣監督、あなたの目は確かでしたよ。

あなたが、「これは運命だ。春馬しかいない」と見出した春馬くんは、生涯かけて『森の学校』を体現してくれていましたよ。

西垣監督の教え子の月の真珠さんが、コラム「京日記 花がたみ」の中でこう書いている。

人としても役者としても完成されてしまったのだろうか。
あまりにも素晴らしい人だから
「もういいよ、そんな穢い世界で修行することはないよ」
と天に引き上げられたのか。
きっと、めくるめくような麗しい世界が彼の目には見えていたのだろう。
清らかな心に適った、真の世界が。

      (中 略)

彼の魂は春の草原を自由に駆ける馬となって
ようやく解き放たれた
森の学校へ。
~今日日記 花がたみより

今、春馬くんが、あの森の学校の世界のような清く美しく癒される場所で、あの可愛い笑顔で過ごしていることを願わずにはいられない。

最後に、マトのお母さんが言っていた言葉

一生懸命に生きた人には、ご苦労さん、ありがとうって言うんやで

泣いちゃったよ。春馬くん。

「ご苦労さん!ありがとう!」



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