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レフ・トルストイの「アンナ・カレーニナ」舞台と小説(その2)〜初めてのトルストイは“読まずに死ねるか!“

(承前)

恥ずかしながら、トルストイの小説を読んだことがなかった。「戦争と平和」に挑戦しようと考えたことはあるが、次々に登場するロシア語名に嫌になった覚えがある。ずいぶん昔の話である。

「アンナ・カレーニナ」は、光文社古典新訳文庫の電子書籍版(以下、これをテキストとする)が、セールになっていたことがあり、入手したまま放ってあった。今回の舞台を観るにあたって、この際、読んでおこうと手に取ったのである。

結論、ものすごく面白い小説です。これはきっと名作です〜お前に言われるまでもない。想像していたのと違い、とても読みやすい。未読の方には、読むことをお勧めします。

以上です。

と終わるのも寂しいので、少し書き足します。

「アンナ・カレーニナ」のエピグラフは、「新約聖書」の中の「ローマの信者への手紙」の一節にある、主イエスの言葉である。<「復讐するは我にあり、我これを報いん」>。「手紙」は使徒パウロのものとされているが、前段に、“愛には偽りがあってはならず、悪ももって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい“とあり、なぜなら、主イエスは言っています、“「復讐はわたしのすること、私自身が報復する」“と。読み始めた時は、気にもとめなかったが、改めて見返すと、小説のテーマの一部である、“赦し“、“信仰“というものが提示されている。

そして始まる物語の最初の一文は、<幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の影がある>。そして、ドラマはアンナの兄オブロンスキーの浮気による、彼と妻ドリーの夫婦喧嘩の話で幕開けする。この“つかみ“が素晴らしい。とっつきづらいロシア文学を想像しながら読み始めた私は、この俗っぽい展開であっという間に物語に引き込まれる。

このような、どこにでも転がっていそうなエピソードから始まる「アンナ・カレーニナ」だが、その後、2つの大きな軸、アンナの物語と、地主貴族リョーヴィンの物語が提示され、そこに様々な人々、出来事が輻輳し、訳者望月哲男の第1巻“読書ガイド“の言葉を借りると、<さまざまなテーマを縦横に描きこんだ総合小説>がつむがれる。

主となる登場人物は、アンナ、その夫カレーニン、そこに割ってはいるヴロンスキー公爵。リョーヴィン側は、シチェルバツキー公爵の末娘キティ。前述のドリーはその姉である。ここまでに、書いた登場人物さえ押さえておけば、読み通すことができる。

ただ、数多くの登場人物が、あたかも彼らが主人公のように書き込まれるので、読む方は多様な視点から、このドラマを眺めることになり、そのことが小説世界の厚み・複雑性、ひいては社会の巨大さを感じることができる。まさしく、“総合小説“が提供する愉悦である。

小説の中心は、人間の持つ感情の動きで、その一部は昨日書いた舞台版でも表現される。ただし、小説が提示するのは、当然ながらそれだけではない。特に、リョーヴィンの背後には、ロシア社会の地殻変動があり、ロシアという国を理解する上でも、興味深い箇所が多々ある。

一つ紹介すると、第2巻でリョーヴィンが、農奴制支持者の地主と対話する場面がある。農奴解放は失敗だったとする地主は、リョーヴィンにこう言う。<「いいですか、大事なのは、進歩というものはすべて権力によってのみ達成されるという点なのです」> 地主は、<ロシアの百姓は豚同然で、下品な振る舞いばかりしている。それをやめさせるには権力が必要>と考える。一方の、リョーヴィンは農地経営に様々な課題を見出している。この地主の言葉に、プーチン的なものを感じるのは私だけだろうか。

世界文学の大名作に対して、これ以上、私がごたくを並べる必要はない。
「アンナ・カレーニナ」は“読まずに死ねるか!“だった


次は「戦争と平和」だろうか


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