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「血の轍」は“マンガの王道“に反するが衝撃的〜押見修造が描きたかったものはなにか

先日、石塚真一のジャズ漫画「BLUE GIANT EXPLORER」を、“ちばてつや的マンガの王道“と表現した。

ちばてつやの母親は厳しい人だったようで、そもそもマンガが嫌い。その年代の方であれば普通ではある。ちばさん曰く、<ちょっとでも色っぽい漫画を描くと嫌がって、「てつやはこんなもの描いて恥ずかしくないのっ?」「私はもう、世間様に顔向けができない!」とものすごく怒るんだよー>(「くずてつ日記」より)

こうした母親の影響も手伝って、ちばさんの描くマンガは性的な場面がないどころか、子供に読ませて安心な作品が多い。

押見修造の「血の轍」(小学館、「ビッグコミックスペリオール」連載)は、この“ちばてつや的マンガの王道“とは正反対の位置にあるような作品である。

押見修造というマンガ家、「惡の華」(講談社)が気になっていたのだが手を出すのは自重していた。この「血の轍」も単行本第1巻の表紙が妙に私にアピールしていたので、完結を機に読むことにした。

衝撃的なマンガである。作者は身を削って描いている、そんな印象を受ける。

幕開け、少年が母に手を引かれ歩いている、道端に猫が寝そべっている。手を触れる少年、猫は冷たい、死んでいる。少年が母親に問う、<どうして? どうしてしんじゃってるん?>(「血の轍」より、以下同)

こんな夢を見ていた中学2年生・長部静一の1日が始まる。ごく普通の家庭の朝のように見えるが、何かがおかしい。画面から出てくるものに、気持ち悪さを感じる。そして、その発信源が静一の母、静子にあることが分かってくる。

“第2話来訪者“、静一の叔母と従兄弟のしげちゃんがやってくる。静一と遊ぶしげちゃんがこう言う、<「静ちゃんちってさ、カホゴだいね。」「ほら静子おばさんってさ、無駄にベタベタするがん 静ちゃんにさ。」>

なお、舞台は群馬県、押見修造の出身地である。つまり、この物語は自らに近づける形で表現されている。

母と息子の関係性がテーマと思わせつつ、父と息子、家族と親戚の問題を包含する。静一の同級生、特に女子の吹石も存在感を発揮する。

「血の轍」は、彼らをえぐっていく。そこには、まさしく“血の轍“が残っていく。

読後にこのインタビューを読んだ。まさしく、作者の人生を反映させたような作品として描かれたことが語られている。ただし、これは連載中のものであり、完結した作品からは思春期の親子関係にとどまらない、より大きな世界を感じる。

この作品世界を表現するのが、独特のタッチの絵、コマ割りである。マンガという枠組みをこわしながら、展開される画面の迫力が凄まじい。

押見は、家にあった「ガロ」系のマンガをよく読んでいたようだが、本作でも“「ガロ」的“なものを感じる。

商業雑誌の連載マンガは、読者の人気に支えられた“連載“という形で展開していく作品が多い。場合によっては、作者の手が届かない形で、物語を続けざるを得なくなる。本作は、そうした力学とは無関係に、作者が描きたかったことを、自らの意思のみで描き切ったように見える。それ故に、読むものに重くのしかかるような気がする。押見修造の思いを受け止めざるを得ないのである。

ちばてつやの母親が読んだら激怒しそうな「血の轍」であるが、“王道“ではないマンガが描く世界も魅力的である


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