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“1979年の桃井かおり“再訪〜43年ぶりの「もう頬づえはつかない」

1979年の桃井かおり、「神様のくれた赤ん坊」を観たら、俄然「もう頬づえはつかない」も見返したくなった。

公開から44年が経っているが、タイトルには“43年ぶり“と書いた。既に書いたが、本作を観たのは公開1年後、大学1年生の時に名画座で観たのだ。原作小説は、早稲田大学の学生だった見延典子が、卒業論文として書いた同名小説

映画はそれを踏まえ、桃井かおり演じるまり子は早稲田の学生である。桃井かおりがとにかく可愛い、美しい。

監督の東陽一は、本作の次に「四季・奈津子」を撮るが、主演の烏丸せつこ、阿木燿子が綺麗である。女優を魅力的に見せることが上手い監督だと思う。

桃井かおりを輝かせるために、彼女を照らす二人の男性。奥田瑛二と森本レオである。二人ともどうしようもない奴ら。ちなみに桃井と奥田はほぼ同年代で、映画撮影当時は20代後半、奥田も大学生の役。森本はひと世代上で、30歳半ばで社会に出られない社会人の役である。

このダメンズに翻弄されながら、まり子はどう生きていくのか。

そこに、毛色の違った視点が何気なく入ってくる。伊丹十三と加茂さくら夫婦。まり子がくらすアパートの大家で、加茂さくらは美容院を営む。伊丹は“髪結いの亭主“である。まり子を中心とする三人の将来と、伊丹・加茂夫婦の現在には関係があるのかないのか。

記憶にある場面は無いなぁと思いながら観ていたのだが、唯一あった。伊丹の紹介で、加茂さくらの美容院でアルバイトをするまり子が、物干し台でタオルを干す場面。伊丹十三が現れて、タオルの干し方を指導する。

タオルとタオルを少し重ね、そこを洗濯バサミで止めることにより、タオルの枚数プラス1個の洗濯バサミで干すことができると。

さらに、物干し竿に通して干した3枚の男性用パンツ、真ん中の1枚だけ乾いていて取り出したい時に、どうするか。そんな状況が存在するようには思えないが。この伊丹十三的場面が、私の記憶の中に残っていた。同年代の男女の関係性の場面よりも、この実用的な場面だけがメモリーされていたのだ。

もう一つ、覚えている場面があった。まり子と同居する奥田瑛二が、彼女の歯ブラシを間違って使う場面。これに対し、まり子は強烈な嫌悪感を示すのだが、重要な出来事として私の頭に刻まれた。

こうした場面は、今回も印象的な場面として、私の前に再現された。しかしながら、重要なポイントは、「もう頰づえはつかない」の桃井かおりは魅力的である、その一点である。

「神様のくれた赤ん坊」は、渡瀬恒彦と桃井の映画だが、「もう頰づえ〜」は桃井だけを輝かせる映画であり、周囲に登場する人物は彼女を照らすライトなのだ

予告編はこちら


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