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クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』

 もしも「魅力的な悪役ランキング」を作ったら上位に入るであろう男、それがジョーカー。

 やっていることは人殺しなのだけれど、頭がキレッキレで、彼ならではの美学もあり、主役のバットマンに負けるとも劣らぬ熱量でファンに愛され続ける存在でもあります。

 特にジョーカーが作中で人々に仕掛けた数々の心理学実験が興味深いです。

 今回はその中の一つについて考えてみたいと思います。


 ※注
 映画の結末までは明かしませんが、ここから先はネタバレがあります!



 ●2隻の船における心理学実験の始まり

 ゴッサムシティの罪無き市民たちが乗るフェリー「リバティー号」。

 かたや、囚人たちが乗るフェリー「スピリット号」。

 ジョーカーはこの2隻の船を舞台にした心理実験を始めます。

 2隻の船のエンジンを水上で止めることで身動きを封じ、外部との連絡手段を断つことで、互いの船の中にいる人々の動向を読み取れなくした上、船に爆弾の起爆装置のリモコンを1つずつ配り、ジョーカーは楽しげにこんな船内放送を始めるのです。

 「それぞれの船に相手を吹っ飛ばすリモコンがある。俺は両方の船を午前0時に爆発させる。だが、リモコンのボタンを押した方の船は助けてやる。さあ、どっちにする?悪党たちか? 何の罪もない市民か? 君たちはどちらを選ぶ? 早く決めた方がいいぞ。相手にはためらう良心など無いかもしれないからな」

 と。

 ●ジレンマ

 市民たちの船では、

 「わたしたちが死ぬなんて! 悪人が死んでも自業自得よ」

 「あっちの連中だって議論してる」

 「多数決だ!」

 と投票が開始されます。

 かたや、囚人たちの船では、誰が統率をとることもなく、バラバラにわめき散らすカオスと化します。

 時間はどんどん午前0時に近づいていき、市民たちの船では投票の結果発表が行われます。

 市民の船がリモコンのスイッチを押すことに反対する票は140票、賛成は396票。

 「早く押して!」と市民たちは叫びますが、誰も自分の手でスイッチを押そうとはしません。

 投票という匿名且つ多数決の状況においては「自分が生きるためなら誰かを死なせる」という選択が出来ても、自分自身が手を汚して悪者になるのは嫌なのです。

 市民の船でリモコンを持たされている乗組員は「我々はまだ生きてる…。まだあっちのリモコンは押されていない…」と呟きます。

 タイムリミットは迫ります。


 ●極限状態での選択

 午前0時まで残り3分を切りました。

 囚人のうちの一人が立ち上がって、囚人側のリモコンを持たされている警察官に「お前に人は殺せねえ。俺にそれをよこせ。10分前にお前がすべきだったことを俺がしてやる」と詰め寄り、リモコンを手にします。

 また、市民のうちの一人も立ち上がって、市民側のリモコンを持たされている乗組員に「誰も手を下せないなら、わたしがやろう。囚人は人殺しや泥棒の道を選んだんだ。わたしたちが死ぬことはない」と詰め寄り、リモコンを手にします。

 人間は誰しも、生きるか死ぬかの極限状態に陥れば我が身可愛さに倫理に触れることだって出来る、誰しも心の奥底は醜い、恐怖に駆られれば何だってする、そう人間の弱さを嘲笑っているジョーカーは「さあ、花火が上がるぞ!」とご機嫌で、自分は安全な所から2隻の船の様子を見物します。

 もし市民がスイッチを押せば、バットマンがこれまで懸命に守り続けてきたゴッサムシティの市民の心にも悪があることを証明出来ます。

 また、もし囚人がスイッチを押せば、もしも更生させようとしても囚人の性根は変えられず、悪は悪のままだと証明出来ます。

 どちらがスイッチを押したとしても、ジョーカーはバットマンに正義の敗北を見せつけられるのです。

 バットマンの心に一生消えない傷を刻み込むことが出来る。

 …ところが午前0時になっても、どの船も爆発しませんでした。

 ジョーカーは驚愕。

 ●善と悪のどちらかを強制するのは難しい

 ジョーカーは読み切れなかったのです。

 人間は恐怖のみに支配される生き物ではないということを。

 囚人はリモコンを船の外へ放り投げて、誰にもスイッチを押せないようにすることで、結果的に市民の命を守りました。

 また、市民はリモコンのスイッチを押そうとしたけれど、結局押せずに、結果的に囚人の命を守りました。

 両方ともジョーカーには読み切れなかった。

 もしかしたらあのスイッチは、相手の船を爆破するものではなく、スイッチを押した方の船を爆破するものだったかもしれないけれど…、どちらもいっこうに押す気配が無いので、午前0時を数分過ぎてからも、2隻とも無事…。

 この映画全体を通してジョーカーは、どんな人間の心の中にも欲望や復讐心といった感情があり、それをくすぐってやれば、どんなに高潔な人間でも闇に堕ちる、ということを証明してきました。

 しかし、2隻とも無事だったこの瞬間。

 人間の醜さや弱さを証明することに失敗しました。

 この2隻の船で起こる出来事を際立たせるためにこの映画があると言っても過言ではない、とわたしは思います。

 誰の心の中でも常に善と悪はせめぎ合っているのです。

 それでもいざとなれば命惜しさから悪に傾くだろう、とジョーカーはタカを括っていたのですが、いざという時に理屈では説明のつかない行動をするのもまた人間。

 善と悪のどちらかに振り切れるのを強制するのは難しいのです。

 ジョーカーは「洋画最凶の悪役」と評されることもあり、わたしもジョーカーのいかれっぷりは正直言ってかなり好きなのですが、この2隻が爆発しなかったことに気づいた時のジョーカーの表情を見て、哀れだとも思いました。

 ジョーカーは言うのですから。

 「近頃の奴らは信用ならん。任せたらこれだ」

 と。

 本当はどちらかの船でスイッチが押されたのに手下が何らかのミスをしたせいで爆発しなかった、とでも思ったのかもしれません。

 けれど、きっとスイッチの機能そのものは正常で、間違いなく誰も押さなかったのだ…とわたしは思います。

 ジョーカーは「哀れ」と言われることを心底嫌いそうですが、手下を信じることも出来ず、自分の命も他人の命も玩具にすることしか出来ないジョーカーは、やっぱり哀れ。

 なぜ誰もスイッチを押さなかったのか、きっとジョーカーには永遠に分からないのでしょう。

 なぜなら、ジョーカーは善と悪とで葛藤することのない人だから…。

 自分を絶対的悪であると思って善を見下す人間には、せめぎ合う人間の心の微妙な揺らぎは理解出来ないのです。



 ●なぜ誰一人としてスイッチを押さなかったのか?

 これについては人それぞれ様々な見解があると思います。

 わたしとしては主に3つの理由を考えています。

 特に根拠は無く、あくまでもわたしの勝手な想像です。

 〈理由1〉
 誰がスイッチを押したか周りの人たちに見えてしまうから。
 周りに沢山の人がいるのに、自分だけが貧乏くじを引いて、自分だけが悪者になって後々も大量殺人鬼扱いされるのが嫌だった。
 誰がスイッチを押したか絶対に誰にも分からないシステムなら、結果は変わっていたかもしれません。
 もしくは、あらかじめジョーカーに「お前がスイッチを押すか押さないか決めろ」と代表者として誰かが指名されていたら結果が変わっていたかもしれません。
 それならばスイッチを押したとしても「仕方がなかった」と言い訳出来るから。

 〈理由2〉
 お互いの船にどんな人々が乗っているか詳しくは知らなかったから。
 もしかしたら相手の船に自分にとって大事な人が乗っているかもしれません。
 また、囚人が乗っていると言われても、どんな経緯があってどんな罪を犯したのかまでは知らされていません。
 これがもしも「相手は極悪非道な人々で、罰を与えるのが正義なんだ」とジョーカーに洗脳されていたら、結果は変わっていたかもしれません。
 戦争をする時、権利者はそうやって「正義」を悪用して兵隊を動かしますよね。

 〈理由3〉
 ジョーカーの思う壺になるのが嫌だったから。
 多くの人々を混乱に陥れたジョーカーに対して、恐怖だけではなく、怒りや嫌悪感を覚えた人もいたでしょう。
 スイッチを押して人殺しになれば、ジョーカーを喜ばせるだけ。
 ジョーカーの望み通りに堕落したくなかった。
 これまでジョーカーがやってきたことへの抗議や、一矢報いる意味でも、スイッチを押さなかった。

 「バットマンが助けに来てくれる可能性に賭けたから」という可能性もありますが、『ダークナイト』はお子様向けのヒーローものではなく大人向けであり、ヒーロー頼みという可能性は低そうなので、除外しました。

 また、リモコンを投げ捨てた囚人については、何をやって囚人になったのか等の背景は不明ですが、自分が犯した罪を贖いたいという気持ちと理由3が合わさってああいう行動に出たのではないかとわたしは思います。

 そうであって欲しいので。

 結局のところ、このフェリーのシーンは、「いざという時に行動を起こせる人間は少ない」「人間は弱い」「だからバットマンが必要なんだ」というメッセージでもあるのかもしれませんが。

 わたしとしては、理由3が有力であって欲しいです。

 人間は確かに弱いものですが、まだまだ捨てたもんじゃないと思いたいから。




 定期的に観返していますが、何度観ても新たな発見のある映画です。

 また機会があれば、ジョーカーのやった他の心理学実験についても考えてみたいです。

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