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覚書:「読んでいない本について堂々と語る方法」

”本との出会いというものは、どんなに取るに足らないものであれ、またたとえ本を開くにいたらないにせよ、本を真の意味で我がものとする第一歩となりうるのである。極論すれば、一度でも出会ったあとに未知でありつづけるような本はひとつもないといっていい。”


タイトルはあまり好きじゃなかった。
こういうHowtoが書かれていそうな本はnot for meだと距離を置いてしまう。
ただ、よく聴いているポッドキャストで紹介されていて手に取ってみた。
読んでみると、とても当たり前のことが書いてあるなぁと思った。
なぜだろう。
それはたぶん、ぼくが色弱だからだ。


ぼくは、青水色紫などのまとまりと、赤茶緑などのまとまり、それらの色の識別がちょっと難しい。
と、事実だけを述べるとこういうことなのだが、それがなにを意味するのかはいまもよくわかっていない。
わからないなりにぼくは、小学1年生のときから自分が色弱であるということをどうにかして自分に落とし込もうとしてきた。


そもそも色とはなんなのか?光の屈折とかいろいろなことが本には書いてある。
けれど、ぼくが知りたかったのは、もっと「身体的な」色だった。

あなたが赤というものと、ぼくが赤というものはなにがちがうのだろうか?
それが違うとして、そのことをどうやって認識すればいいのだろう?
例えば、ファミリーマートの色を「赤・白・青」だと思っていた。
どうして赤だと感じたのかと言われても困る。そう見えたのだ。
ただ、その事実を高校性の頃友人に教えてもらってから、緑に見えるようになった。ほんとの話だ。これってどういうことなのだろう?
そもそも見るってなんだ?


すべての思考のプロセスをここに書こうとすると膨大な量になってしまうけれど、ぼくは「ひとは同じものをみることはできない。」という結論にたどり着いた。今もそう思っている。

正確に言うと、同じものを視界に捉えることはできるが、そこから起きる脳への刺激は同じものになることはない、ということになるのだろうか。

視界に捉えたものを知覚し認識するとき、ひとは認識したいものを認識する。
(ひとは、なんて断定したけれど、ひと以外の動物がどうかはわからない。けれど動物も同じなような気もする。)
つまり、「見る」とは、その景色に何を投影しているのか、という至極個人的な行為とも言える。


同じことは本、そこに書かれている文字にも言える。
そう書いているのがこの本だ。たぶん。ぼくはそう認識した。

義務教育で繰り返された「国語」という授業で、登場人物の心情を答えなさいという問いが頻繁に立てられていた。(今はどうなんだろう?)
この質問は作者が意図したものを読み取りないさい、というものに近い。
この問いで、読むということが遠のいてしまった人もいるような気がする。「そんなのわかるわけないじゃん。」と。

そう。わかるわけがないのだ。読むという行為はそんなに限定されるべきものじゃない。
同じ記号を認識しながらも、そこに何を感じ、なにを読むかはもうあなた次第であなたの自由なのだ。


タイトルからはイメージしにくいけれど、この本は、「読む」という行為を、自分の側に手繰り寄せるための手助けをしてくれているのかもしれない。



ここまで読んでくれたひとはもちろんわかっているとおもうのだけれど、一応断っておきたい。
まず、この「徒歩5分」という場所でそれぞれの作品を紹介する文章を書いているけれど、これさえ全て、ぼくがそれぞれの本から読みたいと思って読んだことだ。
ぼく自身の読みを発信すべきなのかどうか、随分と悩んだこともあった。
読み方を強制してしまうものではないか?と。

でもいまは、吹っ切れている。
ここに書いているのは投げかけだ。答えではない。
それをきっかけとして、あなたの読むが拡がっていけばいいと、そう思っている。

それともうひとつ。
ぼくはこの本を読みきっていません。


ほんや徒歩5分店主

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