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僕はエヴァンゲリオンを考察しない

シン・エヴァンゲリオン:||を見た。

エヴァンゲリオン新劇場版が、初めて世に公開されたのは2007年9月のことだった。まだ、高校生だった僕は、めったに出向かない大都会、大阪・梅田の映画館にいそいそと足を運んだのだった。

ーーそれから14年。ついにあのエヴァンゲリオンが完結をむかえたのだ。
TVシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」を初めて見たのは、中学2年生の夏。兄が一人暮らしをする、大阪のボロアパートの4畳半で、バイトから帰ってこない兄を待ちながら、延々と垂れ流されていたビデオテープから再生される"それ"を眺めていたのが最初だった。作中で描かれる、日常(自然、学校生活、葛城家での楽しい時間)と非日常(人工物、使徒との戦い、友人の死など)の途轍もないコントラスト。いつのまにか、当時14才の僕は大阪のゲットー、クーラーの効かない小汚い部屋で一人、その興味深いアニメを見ることに没頭していたのだった。

30を超えたおじさんになった僕は、あの頃の感性を鈍らせ、日々の生活にすらリアリティーを感じなくなった体で、なんとなく映画館に訪れたのだった。まるで仮想の世界の生き物をフィルターを通してみるかのように、渋谷の混雑する街の行き交う人を眺めながらーー。なぜエヴァが好きだったのか、どんなアニメだったのかさえ、もう正直忘れていた。ただ、当時衝撃を受けた、あのエヴァンゲリオンがまた話題になっている。とりあえず見ておこう。くらいの気持ちで、映画館の狭いシートに腰をおろしたのだった。

予告が終わり、映画館の照明が暗くなる。映画冒頭の音声が、東映の映像や映倫の映像の裏で、ひとりでに流れ始めていた。現実と映画の世界をわからなくする巧妙な演出だな、など思う。

ーー2時間半後。僕が初めて見たときから、17年のときを経てエヴァンゲリオンは幕を閉じた。

正直に言う。今回のシン・エヴァンゲリオン:||をみて、僕はエンドロールで泣いた。設定や伏線や、あれやこれやを考察する動画や論説がネット上に溢れているけれど。僕は、今回の作品を見て、そういうもののほとんどを理解できなかったと言えるだろう。忘れてしまっているのもあるし、そもそもそんなに深く考察できていない。雄弁にエヴァを語る資格はまったくもってないだろう。

でも僕にはわかる。ある一人の男が、いくつも抱えていた悲哀、悲しみ、絶望、苦悩を投影して、作り出した世界。それによって生まれた作品が、25年の歳月をかけて、たくさんの同志を集めて、ようやく完結できたことを。勝手な憶測で甚だ申し訳ないが、庵野秀明監督は、俗に言う、なんとかチルドレンで、その監督の世界の捉え方、苦悩、葛藤、そして大好きなモノを作中の各キャラクターや世界が、追体験させてくれたのだと思っている。

いくつもの設定やシナリオ的に深みのある言い回し。目を見張るCG的な映像美など、素晴らしい点はたくさんあったけれど。そういったものよりも何よりも。非現実的でイマジナリーな世界と、現実の"美しさ"を、途轍もない緩急、侘び寂びで描ききる。そのコントラストの強烈さ(当時14才の僕が、もっとも衝撃を受けた部分)を新鮮さを伴って、みれたことが何よりもの感動だった。アートという言葉を使うのは好きではないけど。まさにアート的な感動を与えてくれた。そして、30過ぎの世界のすべてが「ぼやけた」おじさんは、14才の頃のはっきりと輪郭を持った、あの頃の世界とあの頃の感覚を一瞬だけ取り戻すことができた。

考察をしないと言っておきながら、強いて考察するなら、エヴァンゲリオンは、1つのものに執着し、息子をネグレクトしたうえに利用までして、死んだ妻を求めたアスペ「碇ゲンドウ」が立ち直る物語だったのかもしれない。(いや碇シンジの物語ではあると思うけどれど笑)そして、それが庵野秀明監督、本人に最も近い存在だったのかもしれない。

Neon genesis。

僕には、新世界を創造することを目指し、人類史上もっとも神の領域に近づいた男、庵野秀明が、現実を受け入れ、自身の役目に区切りをつけた物語に見えた。すこしだけ寂しさもあった。でもホッとした部分もあった。

この作品は、すべてのなんとかチルドレンに、メッセージとして刺さり。また新たな世界が誕生することだろうと思う。

新世紀エヴァンゲリオンは終わったーー。

『さよなら、全てのエヴァンゲリオン。』

『ありがとう、全てのエヴァンゲリオン。』

次は、ぼくたちが、新しい世界を創ろう。


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